7なぜ般若心経と聖書を学ばなければ命が分らないのですか

宗教と真実の違いがなかなか分らない。それから、西洋文明の土台になっているキリスト教と、東洋文明の土台になっている仏教との違いが、はっきりしない。さらに、西洋文明の基本的な思想である神と、東洋文明の仏という概念が、どういう関係になるのか、分らないのです。
 現在の世界では、テレビやラジオの発達、飛行機の発達によって、西洋の文明と東洋の文明の境が、なくなっているのです。言葉としては、西洋、東洋といいますけれど、実は、東洋文明の本質が、世界では、まったくで分っていないのです。東洋人が、東洋文明の本質を、知っていないのです。
 東洋文明の本質は、東洋無です。無の見方です。これは、物質はないという見方です。これは、仏教だけでなく、中国の老子という学者が、無の働きがすべてのものを産むというように、説いているのです。
 これは、東洋文明の本質であって、無為の為は、何か仕事をする場合に用いるのですが、無為とは、仕事をしないというように読まれているのです。ところが、老子が言っている無為というのは、仕事をする方なのです。
 無為とは、無の働きということです。無の働きが、有を産むと考えるのです。これが、東洋思想の特徴なのです。
 西洋思想には、無の働きというような考えはありません。般若心経の空は、老子の無為という思想と、非常に良く似ているのです。少し違う所があります。
 色即是空は、空即是色とひっくりかえっているのであって、目に見えるものは空である。ゼロである。からっぽであるといっています。からっぽのものが、目に見えるものになって現われている。これが、空即是色です。
 そうすると、おかしいのです。色は空であるということは、何となく分るのですが、空が色であるとはどういうことか。色即是空というのなら、空即是色と、わざわざいう必要はないのではないか。どちらか、一方にしておかないと、分らないというのです。ここに、般若心経のあやふやさがあるのです。
 こういう言い方をすると、抵抗を感じる人がいるかもしれませんが、実は、般若心経は、非常に鋭い感覚で、文明を批判しているのです。しかし、答を出していないのです。色即是空は分りますが、空即是色ということ、なぜ、空が色になっているかが、分らないのです。
 空とは、ありもしないものですが、ありもしないことが、なぜ現われているのか。
 現在、私達は、地球があると思っています。地球がどうしてできたのかという説明が、般若心経には全くありません。地球が空だといいます。それで終りなのです。それで終りでは、困るのです。
 現在の科学をどう説明するのか。これが問題なのです。
 日本人は、命という言葉は知っていますが、命とは何かということを、正しく説明することができないのです。生きていながら、命が、分っていないのです。これは、正確に言いますと、生きていないことになるのです。本当に生きているのでしたら、命についての説明ができるはずなのです。ところが、できないのです。これは、命を正視していないからです。
 そこで、般若心経によって、人間の常識が全く間違っていることを、まず、認識することです。
 目で見たとうりのものがあるという考え方は、おかしいのです。現在の科学では、物質は存在しないことになっているのです。原子の運動はあります。しかし、物質はないとはっきり言っているのです。
 物質がないという証拠に、原子爆弾ができているのです。原子爆弾や、水素爆弾があることが、物質が存在しないという証明になるのです。般若心経が、色即是空といわなくても、原子爆弾が存在する事実によって、物質が存在しないことを証明できるのです。
 京都大学の、故湯川秀樹さんが、随筆で、大学では、物質は存在しないと学生に教えているが、家に帰ると、物質があるような気持ちで生きている。学者として、恥しいといってました。
 原子爆弾を製造している学者は、物質はないと思って製造していながら、家へ帰ると、やっぱり、物質はあると思っているのです。奥さんの肉体があると思っている。目の前に、ごちそうがあると思うのです。
 物質があるというのが科学なのか、物質がないというのが科学なのか、どちらでしょうか。どちらも科学でしょう。科学は、一方で認めて、一方で消しているのです。これが文明というものなのです。文明は、理論で成り立っているのです。実体によって成り立っているのではないのです。
 現在の専門学は、すべて理論であって、仮定をふまえているのです。時間が存在することを、始めから鵜呑みにしているのです。だから、物理運動があると考えている。ところが、時間が存在するという証明は、誰にもできないのです。時間が存在することを証明した学者は、世界に一人もいないのです。
 いくらがんばっても、時間を証明することは、今の人間には不可能なのです。時間があることが証明できなければ、時間が無いことになる。時間が無いことになると、物理運動は成立しないのです。そこで、学問は困るのです。
 そのように、人間の学問では、人間が生きているということを、説明できないのです。近代文明の学問は、これほど信用できるものではないのです。
 学問は、生活の役には立ちます。科学でも、法律でも、政治、経済でも、すべて、生活の役には立ちますが、生命の役には立たないのです。
 学間というと、いかにも立派そうに見えますが、生活する知恵なのです。こういう考方を、ユダヤ主義というのです。ユダヤ主義が、近代文明を造っているのです。専門学は、ほとんどユダヤ人が造ったものなのです。
 ところが、般若心経は、ユダヤ人が造ったものではないのです。般若心経は、人間が生きている事実を、そのまま、ずばっと説いているのです。目で見ていることは間違っている。耳で聞いていることが間違っている。人間の感覚は、空なのだといっているのです。
 聖書は、何を説いているか。実を説いている。有を説いている。神はあるといっているのです。有りて有るものは、神だといっているのです。
 般若心経は、人間の考えている思想は、無だといっているのです。そこで、般若心経の無という考え方をしっかり踏まえて、聖書を見ますと、始めて、キリスト教ではない聖書が、分るのです。
 聖書から見ますと、プロテスタントも、カトリックも、皆間違っているのです。「悔い改めて、福音を信じなさい」と新約聖書に書いていますが、悔い改めるということが分らないのです。泥棒をした、親とけんかをした、人の物を盗んだことを謝ることが、悔い改めだと教会は言います。それも、悔い改めの一つでしょう。それは、小さいことであって、今まで考えていた、常識が間違っているのです。自分が生きているという考えが、間違っているのです。
 自分が生きているという事実は、ないのです。人間は、自分が生れたいと思って生れてきたのではありません。生れたいと思わないのに、生れてきたのです。そうすると、今いる自分の命は、自分のものではないのです。
 これは、簡単なことです。この簡単なことが、世界中の人間に、全く分っていないのです。イエスは、これが分っていたのです。自分の命がないことを、はっきりいっています。私の命は、父の命だと、いっているのです。父の命が、私というかっこうで現われているといっているのです。
 イエスの、命に対する見方の他に、正確な命の認識はないのです。
 父とは何かというと、父とは神のことをいっているのです。神がなぜ父になるかといいますと、人間は、この世に生れたいと思って生れたのではありません。親が産みたいと思って、生んだのでもないのです。
 人間は、生理現象によって、生れてきたのです、自然現象によって生れたのです。自然現象によって生れたということは、人間の命は、本質的に、おのずからのものなのです。自分というのを、おのずからの分と、読めばいいのです。
 おのずからというのは、天然自然ということです。天然自然が、神なのです。天然自然から生れた私達は、天然自然の分を、自分というべきなのです。自分の自を、みずからと読むから、間違ってくるのです。おのずからと読みますと、命が自分のものではなくて、神のものだということが、自然に分るのです。そうすると、死なない命を見つけることができるのです。イエスがなぜ復活したかというその原理が、はっきりつかまえられるのです。これは、キリスト教ではないのです。聖書そのものをいっているのです。
 般若心経は、仏教ではないのです。人間が生きていることの実体を、いっているのです。聖書も、宗教ではないのです。般若心経は、命の事実を、空の立場から説いている。聖書は、実の立場から説いているのです。この二つをひっくるめなければ、命の実体は分らないのです。




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