72空についてもう少し詳しく説明して項きたい。

 空というのは、からっぽとは違うのです。人間が考えているような状態で存在するのではないということです。
 人間はいわゆる俗念で考えています。例えば自我意識も俗念です。自分という人間がいると考えている。ところが、自分という人間は、いるはずがないのです。人間は、自分の意志によって生まれたのではない。子供を産もうと思っても産めるものではありません。そうしますと、自分の意志によって生まれたのではない。又、親の意志によって生まれたのでもないとすれば、誰の意志によって生まれたのかということになります。
 これを聖書によれば、神の意志によって生まれたということになるのです。現代人が最もきらいなものが神です。神という言葉を出すと、人は宗教だといってばかにするでしょう。しかし、神としか言いようのない事実があるのです。
 神とは、太陽が輝いていることがらです。皆様の目が見えるという事がらが神なのです。心臓が動いているという事がらが神なのです。つまり、皆様方の鼻から息が出し入れされていることです。人間は、命と息と万物によってできているのです。これを聖書では、神は命と息と万物を人間に与えていると書いているのです(使徒行伝17・25)。
 神自らが、命を人間に与えているというのです。神自らがというのは、神が命に化けて人間のうちに入っているということです。これが命なのです。神が命に化けて人間の中に入りこんでいるから、心臓が動いているのです。鼻の穴から息が出し入れできるのです。このような事実が神なのです。神という言葉は 日本で考えますと、神社の神、産土神、又は、氏神様を神と考えやすいのですが、これは本当の神ではないのです。
 日本でも、徳川中期に本居宣長という学者がいたのですが、この人の思想は、現代の思想で読んでもなかなかすばらしいことを述べていた人物です。「しきしまの大和ごころひとすなば朝日のにおう山桜かな」という歌をよんでいますが、神というものを仮に現れて見えるものだと言っているのです。
 万物は仮に私達が見ている姿であって、実は神なのだといっているのです。なぜそうなるかということです。仏教ではそういうことが分かりません。真言宗とか、禅宗とか、浄土宗というものは宗教ですがヾ宗教と仏法とは何の関係もありません。
 宗教とは、人間が勝手につくった坊さんの金儲けの商売です。
 仏法は釈尊の思想です。仏法で言いますと、万物が存在するのは因縁によると考えているのです。因縁所生、因縁によって生まれた所のものだというのです。例えば地球には石炭があります。今から百万年から二百万年前の地球は、非常に温度が高かったのです。酸素の量が今より多かったらしいのです。そのために植物がすばらしい速度で成長し、直系五メートルから十メートルという大木が、無数にあったようです。
 地球全体が大森林におおわれていました。これが地殻変動によって地下に陥没したのです。これが石炭になっているのです。これは誰でもご存じのことですが、そのように、今から百万年から二百万年以前の地球に、大木がおい茂っていたというのが一つの因縁だというのです。地球に、そのようになるべき原因があった。原因があってそういう結果が生じた。これを仏教では因縁というのです。
 つまり、石炭があるには因縁がある。川があるにはあるような因縁がある。それは因縁によるのだというのです。これを因縁所生というのです。
 人間の鼻が上から下へまっすぐについていて、目が横についていますが、これを仏教では眼横鼻直といいます。確か道元禅師が言っている言葉だと思いますが、人間の顔かたちの状態が、万物全体の顔つきの原則になっているのです。なぜそのような原則になっているかといいますと、やはり因縁だというのです。仏教では因縁という言葉ですべてを説明しています。つまり地球があるのではなくて、地球があるべき因縁があるのだというのです。
 山田太郎という人間が生きているのではなくて、山田太郎という人間が、生まれるべき因縁があって生まれてきたというのです。人間はすべて因縁によって生まれてきた。地球も因縁によって存在する。山も川も、一本の草でさえもすべてあるべき所にあるべき因縁があってはえているのだというのです。つまり、草がはえているのではなくて、因縁がはえている。だから空だというのです。
 目で見ているような草があるのではない。目で見ているような木がはえているのではない。松の木ははえるべき因縁が大昔からあった。だからはえているのだというのです。松の木という形で因縁がはえているのだ。これが色即是空の精神なのです。仏典で言いますとそうなるのです。
 科学的に言えば、松の木も藤の木もない。ただ原子があるのだというのです。原子というのは、電子が核の回りを回るという運動があるのです。つまり、物があるのではなく、電子の運動があるのだということになるのです。これがいわゆる空なのです。仏法で説明しますと、因縁所生が空なのです。
 仏法で説明しても、自然科学で説明しても、要するに物質というものはあるのではない。物質的現象は実体がないと考える。これが空なのです。
 皆様の肉体があるのではありません。因縁があるだけなのです。聖書で言いますと、エホバ神が土のちりをもって人をつくったと言っているのです(旧約聖書創世記2・7)。皆様方の肉体は、土のちりだといっているのです。犬や猫や牛は土でつくられた。ところが人間の肉体は土のちりで造られたといっているのです。
 土のちりとは英訳でthe dust of the groundとなっていますから、土地のちり、地球のちりという意味なのです。地球のちりで人間はできた。ところが、万物は地球から生まれたのです。人間の肉体は地球から生まれたのではなくて、地球のちりからできているといっているのです。
ちりというものはおもしろいもので、あらゆる要素が全部含まれているのです。ダイヤモンドから鉄、木、石炭、水、空気に到るまで、いわゆる天地万物として存在する要素又は原素が全部含まれたものが、チリなのです。しかもチリというのは、液体でも気体でも固体でもないのです。
 空が青く見えるのはチリがあるからなのです。太陽光線がチリに反射しているからこのように見えるのです。このチリが人間の体をつくっているというのです。チリは物質とはいえないものです。もし物質であれば、液体か、気体か、固体のどちらかであるべきなのです。
 つまり、人間の体は、物質ではないのです。土のちりなのです。だから食べられないのです。食べてはいけないのです。牛や馬とは違うのです。人間の肉体は物質のようなものでできている。これが実は空なのです。人間の肉体はあると思えばあるが、ないと思えばないような状態なのです。肉体が老化してやがて死にます。そして煙になって消えてしまうでしょう。なくなってしまうのが肉体の本来の姿なのです。
 今こうして、私達が人間の肉体のような形で現れていますが、これがいわゆる神なのです。人間の肉体があるように、仮に見えているのです。つまり、肉体があることが、神であるということになるのです。これを言いますと、宗教家から猛反対されるのです。神は絶対神聖にして、犯すべからずというのです。 実は、イエスが宗教家、律法学者に殺された原因は、神と共にいます、神と私は一つであると言ったからなのです。これは聖書の一番大きいテーマですが、人間存在をとことんつきつめていくと、そう言わざるをえないのです。
 神とはもうーつ上という意味があります。神様とは人間の常識のレベルよりも、もっと上にいるという意味で言います。人間の俗念からずばぬけたものを上という考えと、もう一つ仮に見えるという考えと、この二つのことから神と言われているようです。ところが、日本人が宗教的に考えているような神と、聖書の神とでは、全然違うのです。
 聖書の神は、本居宣長がいっている神と少し似た所があるのです。中国では神のことを天帝とか、上帝といっています。つまり、人間の概念の外にある神、宗教の神ではない神が、天地万物の造り主である神なのです。
 新約聖書で、神が人に、命と息と万物を与えたと書いていますが、これは神自身が化けたものなのです。神自身が空気にばけ、肉体にばけているのです。
 皆様は、現世に生きておいでになることで、現在、神を経験しておいでになるのです。目が見えるということが、そのまま神とつきあっていることなのです。耳が聞こえるということ、言葉が出せるということが、そのまま神と交わっていることなのです。人間が生きているそのことが、神と子の交わりだといっているのです。
 聖書の本当の思想は、今言いましたように、日本本来の神に関する考え方、中国の神に関する考え方、色即是空の考え方と一致するのです。
 ヨーロッパで考えられているキリスト教の教学は、大変間違っているのです。聖書の精神から全くはずれているのです。
 そのように、今の仏教は、仏法から脱線しています。ですから、宗教ではない般若心経と聖書をお話ししたいのです。
 皆様方は、ぼやっと生きておいでになります。神が分からず、色即是空が分からずに生きておいでになるというのは、はっきり言えばぼやっと生きておいでになるからなのです。そんな状態で死んでしまえば、必ず裁きを受けます。
 神のおかげで鼻から息を出し入れしていながら、その神が分からない。だから、妄念をもったままで死んでしまえば、必ず霊魂の裁きを受けるということは、厳然たる事実なのです。ですから、皆様方が死ぬ前に、目をつぶる前に、本当の命は何かを知って頂きたいのです。そして、安心して死んで頂きたいのです。
 人間は、本当の命を見つけたら死ななくなるのです。イエスの復活はそれなのです。実は、皆様の中に、本当の命があるのです。本当の命があるのですけれど、分からないだけのことなのです。私はそれを見つけるための手助けをしたいのです。これは信じる信じないの問題ではなくて、本当のことです。
 今の人間の常識は、本当のことを知らないのです。信じるといっても、神さんを拝むようなこととは違うのです。本当の事実に目をさませば、おのずから信じることになるのです。皆様がみかんを食べるとみかんの味がします。これが信じていることなのです。誰かの家へ行かれてお茶が出されたとします。お茶の中に毒が入っていないとお考えになるから、お飲みになるのです。これが信じていることなのです。
 私達は、毎日、信じるという気持ちを中心にして生きているのです。明日、太陽が東から出るに違いないと信じています。だから生活ができるのです。私達の生活は、信じることを基本にして成立しているのですから、この信じるという感覚のもう少し深い所に目をつけて、色即是空という所まで目を通して、本当の事実をわきまえて信じるということになれば、皆様方の命の在り方が変わってしまうのです。死ぬべき命ではない、死なない命がはっきり分かるのです。



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