6命をどのように見たらよいのでしょうか

命をどのように見るかということですが、魂という角度から見るか、この世に生きている人間の角度で見るからです。
 般若心経は、観自在菩薩が般若ハラミタを了承したといっています。般若ハラミタをつかまえた人格をさしているのです。だから、普通の人間の常識をもっているものとは違うのです。
 人間には、この世に生きている人間と、般若ハラミタを心得ている人間と、二通りの人間があるのです。このどちらを自分にしたいかということです。
 諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つを、三法印といいまして、この三つがよく分りますと、専門家の坊さんになる資格があるのです。宗派によって、少し違う所もありますが、昔は坊主のことを、法印といったのです。法印とは、この三つのことを知ることをいうのです。
 一番最初の、諸行無常は、分りやすいことなのです。行とは、すべてのことが存在することです。
 例えば、建物が存在することが、行なのです。なぜ、行くという字を使っているかといいますと、時間が流れているのです。時間が流れているように、物はすべて流れていると考えるのです。
 これは科学の理論から考えても、そういえるのです。時間がなければ、空間がない。時間と空間の両方は、一つの状態です。時間が流れていることが、そのまま、空間が流れていることになるのです。これが、諸行ということなのです。常は、一つの状態です。あり方がきまっていることを常をいいます。無常とは、きまったあり方があるのではないということです。
 時間と空間は、いつも流れている。事情境遇も、いつも動いているのです。体の状態も、いつも変化している。だから、諸行無常という考え方は、自分の肉体を見ればすぐに分るのです。
 観自在菩薩は、普通の人間ではないのです。ところが、日本人は、普通の人間として、般若心経を読もうとしている。観自在菩薩と、普通の人間とでは、意見が違うのです。だから、五蘊皆空が分らないのです。
 そこで、般若心経を本当に信じるとすれば、観自在菩薩に接近することができるのです。本当に、般若心経を信じたいと考えるなら、少々分りにくい所があっても、のみこんでしまうくらいの度胸がいるのです。
 頭で分っていても、生活でそれを実行するのでなかったら、本当に分っているとはいえないのです。般若心経が、生活で実行できる程度まで、その人の魂が進歩しないと、神を信じることはできないのです。
 神とは、生きているそのことなのです。これは、非常に一方的な、断定的な言い方に聞こえるのでしょうが、神なのです。これは、存在といえますし。又命ともいえます。命といっても、存在といっても、神といっても、天といっても、皆同じなのです。
 それを、私達は、経験しているのです。目が見えることはよく分ります。毎日、目を使っていますから、分るけれど、それが神だとは考えていない。だから、神を経験していても、神を信じていないことになるのです。それが、日本人の基礎的な矛盾になっているのです。
 生きていながら、生きている事実が何であるか、分らないのです。これが分れば、死なない命が分ってくるのです。生きているという事実に、適合しているかいないかを、考えるのです。
 自分の考えのまちがいを認めることが、般若心経の最も歓迎することです。これが、般若心経の目的なのです。
 今、人間が生きている命は、死ぬにきまっている命なのです。死ぬにきまっている命を、自分の命だと思っていることが、間違っているのです。それを、五蘊皆空という言い方で、教えているのです。
 今の人間が生きている命は、カルマとしてこの世に出てきた命であって、カルマとしての命は、本当の命ではないのです。だから、今生きている命は、間違っているのです。これは、人間としてこの世に出た以上、やむをえない運命なのです。死ぬにきまっていることが分っていながら、その命を捨てようとしないことが、悪いのです。
 捨てるというのは、何も首をつることではない。自殺することではない。命に対する見方をかえることなのです。




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