68業を捨てるにはどうしたらよいのでしょうか。
人間は、生まれたいと思って生まれたわけではありません。人間は、生まれさせられたのです。自分の意志に関係なく、この世に生まれさせられたのです。自分の意志でもない。又、親の意志でもない。一体、誰の意志なのかということです。漠然とした言い方になりますが、天の意志、又は、神の意志ということになります。
 神とは、人間に命を与えるもの、命そのものの実体、宇宙人格、宇宙生命そのものなのです。このような絶対者の意志がなければ、人間は生まれてくるはずがないのです。
 人間が生まれたことが業であるというのは、人間存在は与件だということです。日本人として生まれたいと思ったのではない。今の両親の子になりたいと思ったわけでもない。男になりたい、女になりたいと思ったのでもない。一切の条件に対して、口だしをする資格はなかったのです。
 全部与えられた条件です。与えられた条件でしか、生活できないのです。例えば、体重とか、身長とか、健康状態も、与えられた条件であって、与えられた条件以外の生活をしようと思っても、できないのです。人間は、基本的人権といいますけれど、自分自身が生きている条件を、どうすることもできないのです。これが業なのです。
 基本的人権といっても、業から逃れることはできないのです。この世に、生まれさせられたということが、業の本質なのです。そこで、命とは何であるか、人間は何のために存在するかという問題にとりくむのでなかったら、業を果たすことは絶対できないのです。
 人間が、地球上に存在することが業なのですから、存在の根本が何であるかを勉強するしか、業を果たす方法はないのです。
 釈尊は、生老病死という角度から、取り組んだのです。なぜ人間が生まれるのか。なぜ年をとって、病気になって、死んでいくのか。そのように、人間存在の根本問題と取り組む以外に、業を果たす方法はないのです。
 こう言いますと、とても難しいように聞こえますが、実は、自分が生きているという考えが間違っていることが分かれば、業がはてるのです。
 人間は、何が間違っているといっても、自分が生きていると考えることが、第一の業なのです。自分が生きているという考えが間違っていることに気がつけば、まず業が果てる第一の関門を突破できるのです。
 業を果たすための一番大きい問題は、自分の命があるという気持ちを、撤回することです。仮に、自分が生きているという気持ちをやめるとしても、命がなくなるはずはないのです。やはり、心臓は動いているのです。従って、自分が生きているという誤った考えをすてても、生きているという客観的事実は、少しも変わらないのです。
 命の本質を見極めるためにも、自分が生きているという勝手な考え、社会一般に通用する観念を捨ててしまうことが、人間の業を果たすことの一番てっとり早い急所になるのです。



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