67般若心経の空で、すべてが分かるのでしょうか。
 現在の人間の人生には、二つの面があります。思いの面と、命の面です。人生は、てっとり早く言えば、この二つだけなのです。学問、常識は、思いの方です。喜怒哀楽、利害得失は、全部思いの方です。ところが、命の方は、五官の働きです。目が見ている。耳が聞いている。舌が味わっている。声、香、味、触というものです。これは、命の方になるのです。ところが、見ているのは何を見ているか、聞いているのは何を聞いているのか、食べているのは、何をしているのかが、分からないのです。
 般若心経は、宗教家が色々な解説書を書いていますが、本当のことを言うと、商売にはならないのです。本当のことを言わないから、魅力があるという、変なことになっているのです。宗教は、誠に困ったものです。これは、日本の社会の大欠点です。これは、宗教家だけと違います。学者でも、政治家でも、本当のことを言うと、商売にならないのです。これが日本社会なのです。般若心経の解説書がたくさんありますが、これは、思いのことなのです。思いの説明をしているのです。命の方を、宗教家は、全く知らないのです。生きているとはどういうことか。これをつかまえることが、般若心経の目的なのです。

 般若心経は、涅槃を主張しています。涅槃は、からっぽになることです。自分の思いを、空じてしまうことです。宗教家は、空じるという言葉の使い方を、知らないのです。日本の仏教、特に禅宗の欠点は、空の本質を知らないのです。
 空じるとは、空に同じることなのです。空に同調すること、自分が空になりきってしまうことを言うのです。
 空とは、人間の言葉では言えない面、普通の心では感じることができない面を、つかまえることなのです。
 東京大学の中村元教授は、色即是空とは、要するに、物質又は、物体が現象的に存在していることが空であって、目に見えているものが、そのままあるのではないことを、説明しているようです。つまり、目で見ているものがないということは、本当のものは何か、目で見ていることも空であるし、耳で聞いていることも空だ。舌で味わっていることも空だということは、空ではない本当のもの、本源となるものがあることを知るために、色即是空を般若心経は言っていると思える。
 ここまでは、中村教授は言っているのです。中村教授は、日本でも有数のインド哲学の大家です。この人が、このように言っているのです。つまり、五感の感覚は、本当のものをつかまえているのではないから、それを空じることによって、本源であるものをつかまえる第一歩になると言うのです。
 学者は、ここまでしか説明しないのです。ここまでの説明なら、常識でもできるのです。宗教家は、空といいますが、本当の実を説明することができないのです。実を提供する用意なしに、空をいうことが間違っているのです。その意味で、日本の禅宗の空は、間違っているのです。
 臨済宗でも、曹洞宗でも、空という言葉は使います。空というためには、実が分かっていなければならないのです。実の内容が分かっていなければ、空という言葉を、軽々しく使ってはいけないのです。
 宗教は、一種の商売です。商売というのは、ちょっと酷な言い方かもしれませんが、そう言わざるをえないのです。
 空という言葉の対称になるものは、実です。無の対称は、有です。有が分かっている無、又、実が分かっている空ならいいのです。日本の宗教家は、本当の実が分かっていないのです。本当の有が分かっていない。空じるとどうなるか。実がどこにあるのか。空即是色というけれど、空が色になっているその空の実体は何かという説明が、できないのです。できないままの状態で、空という観念論をふり回しているのです。
 つまり、宗教は、観念論です。哲学と同じようなものです。そういうことを、切り売りする商売人のことを、教授というのです。又は、大和尚とか、大僧正というのです。皆、商売人なのです。
 実をはっきり見極めるために、実をつかまえるために、空が必要なのです。空じることなしに、実をつかまえることはできないのです。
 これは、学校でいう観念論より、難しいのです。実があるだけ、難しいのです。本当の実があるだけ、歯ごたえがするのです。梅干しに種があるようなものです。
 仏教の観念論、哲学の概念で、人間の霊魂が、わりきれるものではないのです。自分の思いを空じることによって、命をみきわめることができるのです。だから、般若心経という入口と、聖書という奥座敷の、二つがいるのです。入口だけで勝負はできないのです。花が美しいというのは、美しく見える理由があるからなのですが、これは、直感的に、人の命が本当の命を感じているのです。
 視覚は命の感覚なのです。命の働きなのです。見て美しいと感じられるのは、命そのものを感じているのです。命が直感できている。それが、美しいというように受けとめているのです。
 美しいというのは、魂の真髄にふれているのであって、美しいと感じるのは、死なない命の感覚なのです。永遠の命の感覚が、美しいという形で、人の目に感じられるのです。
 美しいと感じているのは、魂なのです。
 ところが、美しいと感じてはいるけれど、美しいという言葉の本当の意味がよく分かっていないということは、魂の目が開いていないからです。般若心経の空だけで、すべてが分かるのではありません。本当の実が分かると、すべてが分かるのです。



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