62五蘊皆空を、もう少し詳しく説明して下さい。
般若心経の悟りは、一番最初に書かれていますように、観自在菩薩 行深般若波羅密多ということですが、これは人間の悟りではなくて、観自在菩薩の悟りであるとなっています。観自在菩薩というのは、観世音菩薩と同じです。サンスクリットの原語を訳した人によって、訳し方が違っているのです。孫悟空の三蔵法師の玄奘が訳しますと、観自在になるのです。鳩摩羅什が訳しますと、観世音になります。どちらも同じことなのです。
 人間は実は観自在すること、観世音することのために、この世へ来たのです。観世音というのは、この世の音を見るということです。世音というのは、世の中の音です。
 観自在というのは、「おのずから」あるのを見ることです。自というのは、「おのずから」と読んでいただきたいのです。「みずから」と読むと、自分があるという意味になるのです。自在とは、自分があるのではなくて、「おのずから」があるという意味です。「おのずから」というのは、天然自然の命ということです。

 皆様が生きていらっしゃるのは、自分が生きているのではなくて、天然自然の命が皆様という形になって現れているのです。五蘊皆空とは、世の中の人間の考えはすべて五蘊であり、それが空であるといっているのです。
 例えば地球があるように見えますが、地球があるのではなくて、地球を形造っている五蘊があるということになるのです。
 現在、人間が生きているように思いますが、人間がいるのではなくて、五蘊が人間のかっこうになっているのだといっているのです。
 しかし、五蘊という変なものが、なぜ地球となって存在しているのか、なぜ自分自身がこの世へ生まれてきたのかという根本原理が般若心経には書いていません。
 なぜ皆様がこの世へ生まれてきたかという人生の根本目的が、般若心経には書いていないのです。仏典全体を調べても、人間が生まれた目的は、恐らく書いていないでしょう。
 観自在になること、観世音することです。観世音というのは、固有名詞ではなくて、動詞というように考えて頂きたい。つまり、観世音するのです。料理をするように、仕事をするように、観世音するのです。
 皆様がこの世に生まれてきたことについて、自分自身がこの世に生きている状態を、見きわめるのです。これが観世音です。そうしますと、初めて、神を信じるという意味が分かってきます。
 神を信じるとは、命を信じることなのです。
 皆様の目が見えているのは、命のおかげです。皆様が見ているのではありません。命が皆様にあるから見えるのです。そこで、命が肉体に働いていることの有り難さをよく知って頂きたいのです。そうすれば、死ななくなります。
 イエスが復活したように、皆様も死を破ることはできるのです。
 本当に神を信じるためには、人間の常識的な妄念を捨ててしまわなければだめなのです。そこで、般若心経がどうしてもいるのです。
 世間のキリスト教も、仏教も、皆間違っています。間違えるつもりはないでしょうけれども、自然にそうなってしまうのです。
 なぜそうなるかと言いますと、宗教は、現世に生きている人間を喜ばすためにあるのです。ところが、この世に生きている人間は、妄念、五蘊のかたまりなのです。この人間を喜ばそうとしているのです。
 観自在が本当なのです。観世音が本当なのです。
 観世音でない人間がいくら救われても、仏国浄土へ行きましても、成仏しません。例えば、皆様が仏国浄土へお行きになっても、浄土の方で困ります。えらい人が来たということで、成仏させるわけにいかず、地獄へ追い帰すわけにもいかず、仏国浄土へ置いておくわけにもいかず、しようがないからもう一回やりなおせということになってくれればありがたいのですが、そうはいかないのです。仏国浄土を軽んじた罪が、又重なるのであって、本当の他力本願はそんな甘いものではないのです。今の寺で言っているような、甘いものではありません。般若心経も、今の寺で読んでいるような甘いものではありません。
 皆様は、今の仏教は頼りないものだと思ってみえるでしょう。その通りです。信じてもだめなのです。宗教は人間の煩悩に迎合しているのです。私達は本当の命を勉強したいと思うのです。そんな難しいことはできないとおっしゃるかもしれませんが、死ぬことを思えば何でもないのです。死ぬことを思えば、多少の難しさも、がまんをして頂きたいのです。
 放っておけば、人間は死んでしまうのですから、もっと真面目に考えて頂きたいのです。
 イエス・キリストが死を破ったのは、歴史的事実なのです。この歴史的事実を勉強すればいいのです。これは、地球が回っていることの意味を勉強するのと同じくらいやさしいのです。やる気があれば、誰でもできるのです。




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