5 般若心経と聖書は、どのように結びつくのでしょうか

宗教ではない般若心経と聖書を、勉強している人は、ほとんどいないのです。般若心経と聖書では、出典の過程が全然違っているように言われています。
 実は、西洋思想と東洋思想は、本来的には同じものでなければならないのです。二通りの人間がいるのではない。東洋人と白人、黒人と白人が、自由に結婚できるのです。言葉も翻訳して相互に通じるように、人間の五官の働きは、万人に共通するものなのです。甘いものは甘い、幸いものは幸いと、誰もが感じるのです。命は万人共通のものであって、一つしかないのです。
 般若心経と聖書は、文化論的思想で言いますと違ったものですが、これは近世文明の概念なのです。例えば、唯物論と唯心論と二種類があると考える。これも近世文明の世界観です。空というのは、世界全体に向って言っているのであって、もしこの考え方が世界中の人間に実行されない限定されたものであるとすれば、釈尊は真理を悟ったとは言えないのです。
 イエスの復活も同様です。全世界の人間が、一つの生命原理で生きていることが、もし嘘であるとすると、イエスの復活は、日本人には何の関係もないことになるのです。西暦紀元、日曜日が、日本でも通用します。文明の世界観と、人間が実際に生きている事実とは、必ずしも一つではないのです。文明の世界観よりも、命の方が本当なのです。
 大乗仏教には、魂という言葉がないのです。霊魂という言葉もありません。霊魂を言う坊さんはあります。しかし仏典には書いていないのです。
 そこで、般若心経は何を説いているかといいますと、現在生きている人間が、空であるといっているのです。空を悟ることによって、涅槃の境地を捉えることができると言っているのです。阿蒋多羅三乗三菩提とは、これを言っているのです。
 般若心経は、現在生きている人間の感覚が空であることを、悟れと、しきりに強調しているのです。これが仏なのです。
 人間の気持ちは、いろいろもつれているのです。仏とは、ほどけることです。人間の考え方が、錯綜している。これを解いて、人間の気持にすじを与えているのが、ほどけることなのです。真理を知ること、本当の状態を悟ることが、ほとけでありまして、仏陀とは正覚、又は、正覚者という意味です。
 般若心経は、魂がどういうものかについて、言及していません。現在の人間の迷いを指摘しています。心の迷いを指差しているのです。ですから、永遠の生命という言葉は、般若心経には一言も出てきません。だから、般若心経では、死後の世界が分らないのです。
 死んでいくといいます。どこかへ行くのです。生れてきたのは、どこかから来たのです。前世、現世、来世を貫いて、命はあるのです。命は生れる前からあったのです。だから生れたての赤ん坊が、母乳の味を知っているのです。五官には生れる前の感覚が、そのまま宿っているのです。
 そのように、生れる前の命の継続が、今生きているのです。やがて死んでいくのです。どこかへ行くのです。そういう命の、過去、現在、未来に関する流れの全体を捉えることが、人生全体の捉え方になるのです。これは、聖書でないと分らないのです。聖書はこれを示しているのです。
 そこで、般若心経によって現在の人間の間違いが是正されること、聖書によって人間全体のあり方、宇宙と人間の魂のあり方について学ぶこと、この二つがどうしても必要になるのです。
 聖書は、普通の人間が信じょうとしても、信じられるものではありません。聖書は誰が読んでも分ります。分りやすい言葉で書いています。しかし意味がさっぱり分らないのです。
 こころの貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものであると書いています。(マタイによる福音書5・3)この言葉は、小学校の二年生か三年生でも分ります。しかし意味が分らない。常識を解脱してしまわなければ、分らない。常識を捨ててしまいますと分るのです。これがキリスト教では難しいのです。
 御名(みな)があがめられますようにと書いています。(同6・9)神の御名とは何のことなのか。キリスト教では、本当の神を教えてくれないのです。神は造り主だといいます。造り主とはどういうものか。自分の命とどういう関係にあるのか、具体的に、科学的に、はっきり認識させてくれないのです。
 キリスト教では、ただ黙って信じなさいというのです。全く分らないものを、信じることはできないのです。分らないものを分ったというのは、偽善者になるのです。
 ユダヤ教もそのとおりです。ユダヤ人の祖先が神から約束を与えられていながら、約束の意味がユダヤ人に分っていない。
 キリスト教もそのとうりです。新約の意味が何であるのか、分っていないのです。キリストとはどういうことなのか。贖い主といいますが、贖いとはどういうことなのか。どうして人間の罪がなくなってしまうのか。こういうことを徹底的に教えてくれないのです。だから、キリスト教で、二十年、三十年学んでも、だめなのです。
 すべて宗教的に考えますと、イージーゴーイングになってしまうのです。
 そこで、人間の考えは空であるという般若心経の考えをふまえて、自分の気持ちを捨ててしまって、聖書をもう一度見るという態度をとるのでなかったら、本当のことが分らないのです。
 イエスは、自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさいと言っています。(マタイによる福音書16・24)自分を捨てるというのは、涅槃と同じことです。涅槃の気持ちにならなければ、聖書を信じることはできないのです。
 般若心経は前編、聖書は後編と考えてもいいのです。この二つをセットにして勉強しますと、本当のことが分ってくるのです。




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