61般若心経は無にかえることを教えていると思いますが、無にかえって、自我意識を捨てて生きるにはどうしたらよいのでしょうか。
無に帰るということですが、その前に、般若心経の本文の終わりの方に、遠離一切顛倒夢想、 究竟涅槃という言葉があります。
 顛倒夢想とは、人間が現世で考えていることは、すべて、逆立ちしたような考えになっているというのです。つまり、頭と尾が反対になっている。逆立ちして歩いているような考えになっているというのです。これが顛倒夢想なのです。
 今、人間は生きていると思っていますが、実は死んでいるのです。なぜかと言いますと、皆様は生きてはいらっしゃるけれど、命をご存じではありません。命とは何かについて、はっきりした答えができないと思います。これはどういうことでしょうか。これが死んでいることを、意味しているのです。
 生きるという言葉は、息するという言葉から出てきているようです。息とは何かといいますと、鼻から息を出し入れしていることなのですが、旧約聖書の創世記に、神が人間に息をふきこんだという文字があります(二・七)。息というのは、実は、神の実物なのです。

 皆様が鼻から息を出し入れしているということは、神の実物が、皆様と一緒に働いていることなのです。
 この神は、日本の神とは違います。日本の神は八百万の神でありまして、いくつでもできるのです。乃木大将が乃木神社になったように、藤原鎌足が談山神社になったように、菅原道真が天神さんになっているように、日本の神さんはいくつでもつくれるのです。
 ところが、菅原道真は、人間に息を与えることはできないのです。息を与えることができる宇宙の命の力、宇宙の命を司っているものが、誠の神なのです。本当は、聖書にある神は、日本語でいう神という言葉では言い現せないものなのです。
 日本語で神と訳すといけないのです。明治時代に、英語のゴッド(God)を神と訳したのですが、訳し方が間違っていたのです。いまさら変えるわけにはいかないので、私も神という言葉を使いますが、日本藷の神とは全然違うのです。
 今生きている人は、それが全然分からないのです。なぜ分からないかといいますと、人間がこの世へ生まれてきた因縁が全然分かっていないからです。そのように、生きていながら命の因縁が分からないというのは、実は死んでいる状態なのです。人間の意識の状態が間違っているのです。これを無明煩悩といいます。そこで、無明煩悩を捨てて、今までの皆様の考えを捨てて、新しい気持ちになることが、無に帰ることなのです。

 今までの自分の思いこみ、常識を捨てて、新しい気持ちになること、白紙になって、自分の人生を考えることが、無に帰ることです。
 人間は、自分の思いが自分を不幸にしているのです。本当に幸福になりたいと思ったら、自分の思いを捨てればよいのです。そうすれば神が分かるのです。神が分かれば、命が分かるのです。命が分かれば、死ななくなるのです。どうかこの点をよく考えて頂きたいのです。
 死ななくてもよい人生があるのです。神が分かれば死ななくなるのです。
 神は命の本体ですから、皆様が鼻から息を出し入れしておられるその力、心臓が動いているその力の本体が分かれば、死ななくなるのです。そのためには、般若心経が言っていますように、まず自分の思いを捨てることです。
 究竟涅槃とは、自分の思いが消えてしまうことなのです。人間の気持ちが消えてしまうことを究竟する。究竟するというのは、つきとめる、きわめつくすという意味なのです。涅槃をきわめつくすこと、無に帰ることが、般若心経の目的なのです。
 遠離一切顛倒夢想究竟涅槃が般若心経の目的でありまして、人間の考えが間違っていますので、間違っている考えを捨てて、素朴な気持ちになって、人生を考えてみようという態度をとることが、無に帰ることなのです。



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