60空(くう)をどのように考えたらよいのでしょうか。
 般若心経の空といいますと、大変難しいもののように思えるのです。仏典が、難しい漢字でいっぱいつまっているので、極めて難しいことのように思えますが、実は、何でもないのです。生きている人間は、死ぬにきまっているのです。これが、空なのです。何を考えても、どんな生活をしても、死なねばならないということにきまっているのです。死なねばならないということにきまっているという考え方が、釈尊の考えの中心になっているのです。
 現世に生きることを考えないで、大きい命に目を向けることが、仏という言葉の意味になるのす。
 仏とは、解けること。人間の色々な思いが、解けることを言っているのです。「仏とは、たが言いにけん白玉の、糸のもつれのほとけなりけり」という歌がありますが、人間の思いは、こんがらがっているのです。それを解いていくのが、仏教の悟りの中心でありまして、それを解いていくためには、空を捉えることが必要です。
 何のために生きているのか分からないということは、目的なしに生きていることですが、生きていることを素直に見ていきますと、新しい世界観が開けてくるのです。
 人間が現世に生きていることは、命を現に見ているのです。命を見ていながら、命の国が分からない。未知の国とは、命の国ということです。これを見つけるのです。
 未見の我とは、まだ見ていない自分自身のことで、現世に生まれてきて、現世に生きているのは、現世における自分のことです。未見の我とは、永遠に生きるはずの自分なのです。
 生かされている自分とは、死なない自分です。生かされている自分と、生きている自分とは、全然違います。生かされているのは、神の命によって、生かされているのです。
 現に、太陽を見たり、野菜を食べたり、魚を食べて、その味が分かります。魚の味は、魚屋がつくったものではありません。これは、天然現象であって、大自然の命の働きなのです。大自然の命の働きの魚を食べると、その味が分かります。これは、大自然の命の味が分かることなのです。
 落ちついて考えると、本当の命が分かるのです。そのためには、今までの自分の考え方が、空であったことを、認めることから、始めなければならないのです。
生きている自分しか、考えなかった。生かされている自分を、まじめに考えようとしなかったこ生きている自分は、死んでいく自分です。生きている自分しか見ていない人は、必ず死ぬのです。
 魂のこと、霊魂のことを、全く知らない。従って、死んだらどうなるかが、さっぱり分からないのです。これは、困ったことなのです。
 死ぬというのは、現世のその人の経験が、凍結されるのです。生きている間は、自分の経験は、修正することができます。死んでしまえば、絶対に、方向転換はできないのです。
 生きているうちに、思想の方向転換をする必要があるのです。般若心経の空とは、生きている人間のえは、頼みにならないということです。これを認めることが必要です。




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