59業(ごう)とは何でしょうか
 分かりやすく言いますと、人生の矛盾ということです。これが、業の正体であって、人間は矛盾を解決しようと思って、文明を造っているのですが、文明社会の矛盾を解決するという考え方は、肉体的生活の満足によって、人間の矛盾を解消しようと考えているのです。これが、民主主義、資本主義、社会主義の考え方なのです。
 人間の生活を楽にすることによって、矛盾を解決しようと考えている。これが、政治の考え方なのですが、現世では、人間の業を、欲望を満足させることによって、一寸のばしに先へのばしていくことは可能です。これは、ただごまかしているだけのことなのです。ディスコやロックのような音楽を、どんどんかけますと、冷静に物を考えることができなくなるのです。
 文明は、人間の業をごまかしているだけなのです。人間の命に、本質的な幸いを与えることはできないのです。なぜかというと、命を勉強している指導者が、一人もいないからです。
 これは、日本だけではないのです。日本は最もひどいのですが、アメリカでも、イギリスでも、そう言えるのであって、中国も他の国もひどいのです。
 唯物主義の点から言いますと、中国は、社会主義的な唯物主義であり、日本は、無宗教的な唯物主義なのです。これは、同じことです。結局、生活のことは考えるが、生命のことは考えないという主義なのです。
 一体、生命と生活と、どっちが重要でしょうか。今の学生に、生活と生命と、どちらが重要かと聞くと、生活の方だと言うでしょう。これが、民主主義社会の通念なのです。現世に生きていることが、最高、最上のように思えるのです。現世に生きていることが、一番けっこうに思えることが、人間の業なのです。それが、自我意識の業なのです。
 般若心経は、あたかも、そういう人間の業に、頭から水をかけるように、色即是空、五蘊皆空といっているのです。般若心経は、誠に痛快です。現在の人間の文明に、頭から冷水をぶっかけるうなことを言っているのです。しかし、本当なのです。
 日本の昔はそれほど悪くなかったのです。高度成長時代になって、非常に悪くなったのです。物質万能主義になって、とにかく、ひどいことになっているのです。これは西欧文明思想が入りこみすぎたために、日本の良さが消えてしまったからです。
 日本は、元来、無宗教の国ではなかったのです。今では、まるで無宗教です。宗教はありますが、すべて生活のための宗教であって、生命のための宗教ではありません。死んでから極楽へ行きたいという考えも、実は、現世における生活の延長が、極楽になると考えているのです。
 つまり、人生を、まるで知らないのです。まじめ鱒考えていないのです。この世に生まれてきたことが、業なのです。自分が鼻から息を出し入れしていると考えることが、業なのです。
 例えば、恋愛感情とか、家庭のこと、友人関係、金銭問題等にわだかまっている色々な矛盾が、人間の業なのです。これは、真実の鉱脈を知らないから、こういう問題が起こってくるのです。
 真実とは何か。本当の毒とは何か。真理は、人に、壷好きなものを与えるのです。真理は、あなたがたに、自由を与えると、新約聖書は言っています。どういう自由かと言いますと、まず苦しみからの自由です。愛別離苦といいますが、愛する人と生別、死別する苦しみです。こういうものが、人生です。この苦しみからの自由を与えてくれるのです。
 肉体的に生きていることが、空であって、肉体的に生きているという事実はないのです。それなのに、肉体的に生きていると、勝手に思っているのです。
 肉体的に生きていると、非常に大きい間違いをするのです。赤い花は、肉体的な感覚で見ると、赤く見えるのです。ところが、赤い花は、赤くないから赤く見えるのです。目に赤く見えるのは、赤い花が、赤い色を拒んでいるのです。そこで、拒まれている色が反射して、人の目に映るのです。
 そのように、肉体的な感覚は、色彩でさえも反対に見ているのです。これを、般若心経では、遠離一切顛倒夢想と言っているのです。顛倒夢想とは、人間の考えは逆立ちしている。ひっくりかえっているといっているのです。人間の肉体感覚は、赤くないのに赤く見えるようにできているのです。だから、肉体があると思っている人は、そういう業に、とりつかれているのです。そこで、色即是空という考えが、どうしても必要になるのです。
 肉体的に生きている事実はないのです。肉体は、生理機能の表現なのです。生理機能の働きが、肉体として現れているだけであって、肉体があるのではない、生理機能という事がらが、肉体という物理構造になって、現れている。これを、空といっているのです。
 骨の働きが、筋肉や内臓を造っている。筋肉や、内臓、骨の三つが集まって、肉体ができている。つまり、人の肉体は、生理構造の現れ生理構造は、物質ではないのです。物理構造の働きなのです。科学的な働きなのです。科学的な働きが、肉体という働きになって現れているのであって、般若心経は、これをはつきりと、色即是空といっているのです。
 これは、非常に科学的です。ところが、科学を勉強している人が、皆、自分の肉体があると思っている。何のために、科学を勉強しているのでしょうか。そういう教え方をしているのは、現在の大学です。学校教育は、とんでもない、無茶なことを教えているのです。今の学問は、十のうちの九までも、このような間違いを教えているのです。
 現在の文明には、信用できるものが、一つもありません。この世の中は、業のかたまりです。矛盾のかたまりです。ここからぬけ出すことが、真実の鉱脈を捉える、第一の方法なのです。
 般若心経は、間違った人生からぬけ出す第一の方法であると言えるのです。第二の方法は、間違った社会からぬけ出して、本当の命をつかまえることです。
 命とは何かというと、真実の鉱脈です。神の約束の鉱脈なのです。地球はなぜできたのか。人間は、どうして人間であるかということです。こういうことは、真実の鉱脈を捉えれば、はっきり分かるのです。これは、聖書を勉強しなければ、分からないのです。
 キリスト教ではない聖書、仏教ではない仏法の根本が、般若心経の空です。この二つを勉強する必要があるのです。
 自由ということを、つけ加えておきますと、現在肉体的に生きている人間は、自由を持っていないのです。病気になったら、すぐ死ぬということを考えます。これは、死から解放されていないからです。
 今の人間は、死に押さえつけられているのです。死なねばならないと考えている。死にたくないけれども、死なねばならないと思っている。これが、不自由の原因なのです。
 死から解放される。死なない命を見つけるのです。
 死なない命を見つけると、本当の喜び、本当の解放が、初めて分かるのです。死ぬにきまっている人間には、解放とか、自由とかいう言葉は、観念論としてはありますけれど、本当の自由はないのです。死から解放されることが、本当の自由なのです。これが、本当のしあわせに、のです。
 死から解放されれば、生活難から、解放されるのです。人間の肉体は、新陳代謝の物質ですから、滅びてしまいます。肉体は消耗品ですから、なくなります。これは、死ぬこととは違います。死とは、人間の心理が、死につかまっていることです。
 本当の命が分かったら、死から解放されるのです。世界観と価値観が変わってしまえば、死なないことがはっきり分かるのです。
 物の見方が変われば、業を果たしてしまえるのです。業の結果は、死なのです。死なないのが、本当の魂なです。これを見つけることです。これが本当の自由なのです。



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