57般若心経に、無色声香味触法とありますが、本当でしょうか。
 般若心経には、般若心経の欠点があります。これは、人間の悟りであって、神の言葉ではないのです。般若心経で、無限耳鼻舌身意無色声香味触法とありますが、五官の働きはないといっているのです。これが、般若心経の欠点なのです
 般若心経の背景には、人間の悟りはありますが、神の知恵がないのです。神の信仰がないのです。全知全能の神の知恵が、般若心経のバックにはないのです。人間がいくら悟っても、悟っただけでは神は分からないのです。これが、「無限耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界」という言葉になっているのです。

 見ている世界は、見ている状態のままであるのではない。例えば、建物があるように見えるのです。ところが、建物はないのです。あるように見えるが、ないのです。なぜ、そう言えるかといいますと、時間、空間は、ないからです。時間、空間がなければ、建築物はないのです。
 ところが、近代学、現代学は、時間、空間が存在するという概念に基ずいて、つくられている。これが、学問主義なのです。唯物主義、即物主義の概念、物質が存在するという概念にもとずいて、学問がつくられている。そこで、時間、空間があると考えているのです。ところが、時間、空間があることは、空間が存在するという概念に基づいて、つくられている即物主義の概念、物質が存在するという概念にもとづいて、空間があると考えているのです。しかし、時間、空間があるという証明はできないのです。絶対にできないのです。
 科学によって証明できないのです。これはおかしいのです。現代の学問は、時間、空間がある所から出発している。しかし、時間、空間があるという証明はできないのです。絶対にできないのです。時間がないことは、比較的簡単に説明できますが、空間の方は、ちょっとめんどうなのです。素粒子の問題とか、電子と電流の問題を説明しなければならないのです。人間は、時間があると常識で思っているだけです。人間の精神構造によって、時間が存在するという意識を、勝手に持っているのです。しかし、これが実は、人間の精神構造は、ないものをあるかのように考える意識機能なのです。
 ないものとはどういうものかというと、非有です。英語では、アー・ノット (are not)という言葉になるのです。ないものを、あるかのように神が呼んでいると言っている。これは、聖書の非常に難しい所ですが、キリスト教では、この説明ができないのです。
 人間は、ありもしないものをあるように考えている。そのような能力を、神が人間に与えているのです。それは、人間の霊魂の本質が、神の遺伝子だからです。神の遺伝子が、人間の霊魂の本質になっている。これは、生まれる前の人間の先天性なのです。又は、本能性です。これを、ロゴス(言)というのです。ロゴスが、人間の霊魂の本質であって、ロゴスが肉体となって、この地上に生きている。これが人間なのです。
 だから、人間の五官は、ないものをあるように受けとめる力を持っているのです。これが、神の言葉です。遺伝子の本質は、言葉です。神の言葉が、人間の霊魂の本質になっているから、人間は、神が考えているように、考えることができるのです。
 時間はないのです。ないはずの時間を、あるように神が呼んでいる。コール(call)しているのです。そこで、人間の意識も、ないはずの時間を、あるように認識できる心理構造があるのです。この説明が、般若心経ではできないのです。般若心経には、神がありませんから、時間はないとしか言いようがないのです。そこで、無眼界ないし無意識界となってしまうのです。
 新約聖書ローマ人への手紙四章十四節に書いています。建築物があるように思います。ただそう思っているだけなのです。実は、実存していないのです。そこで、この世に、六十年生きていた、七十年生きていた、この世があったと思いこんでいると、その霊魂は、皆間違いを信じているままで、この世を去ることになります。これが、地獄につながっていくのです。

 生きているうちに、物の考え方を、徹底的になおしておかなければならない責任が、私達にあるのです。
 今の文明意識は、間違っているのです。例えば、時間がないことを説明しますと、今、今という間に、どんどん時間がすぎ去っていきます。時間は、どんどん流れています。流れている時間を、どうしてつかまえるか。「今、今というまに今はなし、今というまに今はすぎゆく」これが、時間の存在形態です。
 ところが、他の面も考えられます。「今、今といいつつ、今はある。今、この今、とこしえの今」ということができます。今という瞬間はあります。瞬間はありますが、その前も、後もないのです。今という瞬間は、ずっと続いているのです。しかし、これは、時間ではないのです。
 これを、西田哲学でいいますと、不連続の連続ということになるのです。ところが、時間を説明していないのです。哲学では、説明ができないのです。
 時間が存在することは、科学では、絶対に、説明ができないのです。物理運動は、時間がなければ発生しません。時間があれば、一秒間にに、一億四千万回も、電子が原子核の回りを回転できるのです。一秒という時間があればのことです。ところが、一秒という停止した時間は、ないのです。
 時間は、いつも流れているからです。こういうことは、日常生活で、いつも経験していることなのです。
 人間は、本当の実在を知らない。なぜ実在が分からないかといいますと、神が分からないからです。神が呼んでいるのです。今、今、今と、神が呼んでいるのです。このように、時が流れていることを、神というのです。神が分かりますと、時が流れることの原理が分かるのです。これに基づいて、物理運動が成立しているのです。
 時間、空間の本体は何か。これが、ザ・ネーム・オブ・ゴッド(the name of God)なのです。神の実体です。これが、時間の本体です。
 そういうものであって、無眼界ないし無意識界とは、般若心経では神が分からないから、一切空という立場からだけの発言をしているのです。神が存在することを考えますと、人間の生き方から、神の生き方へ、転換できるのです。これが、死から命へ移る方法なのです



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