55空と実の関係はどうなるのでしょうか。
 釈尊が説いたのは、空ですが、空の本体は一体何であるか。空とは、物質的に存在する現象は、実体がないということです。ところが、空とはからっぽなのかというと、からっぽではないのです空とは、恐ろしい実を示しているのです。空という言い方で、実を示しているのです。
 日本の仏教は、ご開山の仏教なのです。ご開山が造りあげた教えが、日本では釈尊の教えのように言われていますけれど、実は、そうではないのです。空海の教え、伝教大師の教え、親鸞の教え、日蓮の教えはあります。これが、日本の仏教であって、この人達は、釈尊の教えを学んだのですが、釈尊の教えがそのまま反映しているのではないのです。
 般若心経は、如是我聞という言葉を、全然使っていません。最初から、観自在菩薩行深般若ハラミタといっています。ここに、般若心経の長い所がありまして、釈尊の見解が、率直に書かれているのです。その意味で、日本に仏教はありますが、釈尊の空がはっきり教えられていないということは、やむをえないことだと思います。日本だけではなく、インドにもありません。タイやミャンマーにもありません。世界中どこにもないのです。日本で、般若心経を愛好しているというだけでも、相当空の面が多くありそうだとは言えますけれど、釈尊の本当の思想ではないのです。
 釈尊は一体何を言いたかったのか。彼は一切空ということを言いたかったのです。つまり、人間が現世で生きていること自体が、本当ではないということを言いたかったのです。それでは、本当のことはどこにあるのかということです。
 私達が生きていることが空であるとすると、実は一体どこにあるのか。大乗仏教は、実を教える方法がないのです。般若心経は、一切が空であるといっています。ところが、聖書は、実そのものを突き出しているのです。
 仏教には無という思想があります。東洋無とも言いますが、無が分かっても、有は何であるか。今、ここに、人がいるとして、この人は、有と言わざるを得ないのです。一切空といっても、現在、人がいることは、否定できないのです。観念的には空であっても、実体的には、有である。この有は、どこから来たのかということなのです。
 地球は、どうして生れたのかという問題です。これは、仏典では、絶対に説明ができないのです。なぜかといいますと、仏典は、地球が存在している所から始まっているのです。。人間が生きている所から出発しているのです。
 釈尊は、生老病死の四苦を、見きわめようと考えた。人間がいなかったら、仏法は初めからできなかったのです。
 聖書は、そうではないのです。人間がいない所、地球ができる前から、始まっているのです。そこで、私達は、どうしても、人間がなぜ現れたのか、地球がどのような理由で造られたのかを、学ぶ必要があるのです。
 創世が、日本人には、全然分っていないのです。キリスト教でも分かっていないのです。神の御霊(みたま)によって、聖書を見ることができないからです。
 ヵトリックは、カトリシズムという教義に従って、聖書を見ているのです。キリスト教は、キリスト教の教義に従って、聖書を見ている。だから、聖書を見る見方が、すべて、宗教的に、教訓的に、限定されているのです。キリスト教というめがねで、聖書を見ているのです。だから、キリスト教のキリストは見えるけれども、本当のキリストは見えないのです。
 仏教もそうです。日蓬宗というめがねで仏を見ている。日蓮宗の仏は分かります。浄土真宗の仏は分かりますが、本当の仏が分からないのです。だから、本当に命の勉強をするなら、日本という国がらにも、宗教にもこだわらないで、自分自身の命という角度から見ていくのです。これは学問ではありません。宗教でもありません。生きているということは、世界共通なのです。
 命という角度から考えますと、命が、動物、植物になって現れているのです。だから、大日如来という説は、一種の抽象人格なのです。本当に存在する人格ではないのです。阿弥陀如来もその通りです。観世音菩薩もその通りです。菩薩とか、如来というのは、仮称人格でありまして、ある精神状態、又はすばらしい能力を、尊敬する形で人格にまつりあげて、よんでいるのです。
 私達は、一切の虚飾を取り去って、仏教とか、キリスト教とかいうアクセサリーをとって、率直に、素直に、真理そのものにつっこんでいく必要があるのです。
 大日如来とは、仮存在なのです。本当の大日如来は何であるか。これは、神みある部分を示しているのです。日本の神ではありません。日本の神は、八百万の神です。そういう神ではなくて、本当の神、命そのものの実体です。太陽が輝いていることの実体です。これを見ていかなければならないのです。
 太陽は、神の実物を、形象的に現しているのです。形態的に現しているのです。神の力が、太陽という形で、現れているのです。これを世というのです。

 創世とは、神の栄光、神の力が、物理現象として現れている時代のことです。世が造られたのであって、物が造られたのではないのです。人間が造られたのではない。地球が造られたのではない。万物として、禰の力が現れる時代が造られたのです。
 創世とは、神が世を造ったのであって、物を造ったのではないのです。例えば、時間が存在しないのですから、空間も存在しないのです。そうすると、私達が見ている、時間、空間は何なのか。これが神の全能です。ないものが、あるように見えるのです。あるべき道理がないものが、実在するように感じられるのです。そのように感じさせている神と、感じさせられている人間がいるのです。
 人間は、物があるように感じています。神は、万物があるように感じさせているのです。そこで、神の創造力と、人間の感受力が一つになって、命が発生しているのです。
 人が生きていることが、そのまま神を経験しているのです。考え方によりますと、大日如来とは、自分のことです。阿弥陀如来も、自分のことなのです。観世音菩薩も、自分のことなのです。その時、その時に、観音さんになったり、如来さんになったりしたらいいのです。
 イエスが死を破ったという厳粛な事実が、一つあるだけなのです。もしイエスが死を破らなかったら、彼はただの嘘つきなのです。死を破ったことが、歴史的にはっきり残っているのです。これは、どうしても、否定することができないのです。この事実を勉強すると、死なない命が分かるのです。
 実は、人が生きているその魂の本体は、そのままイエスなのです。人が生きていることが、神なのです。ザ・リビング・オブ・ザ・ゴッド、生ける神という言葉が聖書にありますが、ゴッドはリビングだといっているのです。
 命はそのまま神なのです。人が生きているのは、人間ではなく、イエスそのものなのです。人の命の本質は、イエスそのものなのです。だから、主イエスというのです。
 固有名詞の自分は罪人です。これは、地獄へ行くにきまっているのです。しかし、生かされていることは、神の子なのです。これが、イエスなのです。これが、聖書の奥義です。




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