聖書のことば |
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された(旧約聖書創世記1・26、27)。 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった(同2・7)。 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた(同6・5)。 神はモーセに言われた、「わたしは有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である(同エジプト記3・14、15)。 「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません。まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために騒ぎまわるのです」(同詩篇39・4〜6)。 空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか(同伝道の書1・2、3)。 人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである(新約聖書マタイによる福音書4・4)。 まず神の国と神の義とを求めなさい (同6・33)。 あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍なり、その耳は聞こえにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で開かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである(同13・14、15)。 バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている(同11・12)。 わたしは口を開いて響を悟り、世の初めから隠されていることを語り出そう(同13・35)。 時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ(同マルコによる福音書1・15)。 だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう(同ルカによる福音書9・23、24)。 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった(同ヨハネによる福音書1・1〜5)。 すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼は受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた(同1・9〜14)。 よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である(同3・5〜6)。 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子(みこ)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである(同3・16)。 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである(同4・24)。 よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである(同5・24)。 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである(同5・39)。 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう(同6・40)。 あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ(同8・44)。 わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じるは、いつまでも死なない(同11・25、26)。 わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない (同14・6)。 真理の御霊(みたま)が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう(同16・13)。 水遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります(同17・3)。 神について知りつる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである(同ローマ人への手紙1・19―23)。 すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである(同3・23・24)。 死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである(同4・17)。 肉の思いは死であるが、霊の思いは、命と平安とである(同8・6)。 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい(同コリント人への第一の手紙6・19、20)。 わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子(みこ)を信じる信仰によって、生きているのである(同ガラテヤ人への手紙2・19、20)。 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである(同エペソ人への手紙4・6)。 あなたがたは、以前の生活に属する情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しい人を着るべきである(同4・22〜24)。 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである(同コロサイ人への手紙3・3)。 すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言(みことば)を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある(同ヤコブの手紙1・21)。 神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新に生まれさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである(同ペテロの第一の手紙1・3、4)。 あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち神の変わることのない生ける御言によったのである(同1・23)。 あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照らすまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい(同ペテロの第二の手紙1・19)。 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言(ことば)について、このいのちが現われたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしを、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現われたものである。すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子(みこ)イエス・キリストとの交わりのことである(同ヨハネの第一の手紙1・1〜3)。 この後、わたしは四人の御便(みつかい)が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。また、もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼らは地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使いにむかって、大声で叫んで言った、「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった(同ヨハネの黙示録7・1〜4)。 わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である(同22・16)。 |