23なぜ聖書だけで本当のことが分からないのでしょうか。般若心経を勉強しなくても、聖書だけで神が分かると思いますが

 聖書に、神を信じるという言葉がありますが、世間並の普通の考え方で、神を信じることができるかどうか。キリスト教ではできると言いますが、実はできないのです。これが問題です。なぜそうなるかということです。二十年も、三十年も教会へ行っていながら、どうして神が分からないかということです。それは、肉体的に生きている自分の気持ちで神を信じようと思っているからです。
 聖書は、人は皆罪を犯したので、神の栄光を受けることができないと言っています。人間はすべて原罪動物であって、人間は十字架によって一度死んでしまわなければだめだと言っています。
 肉体的に生きている人間を認めるという思想は、聖書で言いますと肉の思いになるのです。肉の思いは死である。霊の思いは命であり、平安であると言っています(ローマ人への手紙8・6)霊の思いは、肉体的に生きているという自分の気持ちを捨ててしまわなければ分からないのです。生理機能、心理機能に基づいて考えることを、霊の思いと言うのです。
 キリスト教では、牧師さんが霊の思いを知らないのです。肉体が存在しないことを、はっきり言える人はいないのです。霊の思いは、霊的な思想で物を考えることだとキリスト教では思っています。キリスト教で言う霊的な思想はどういうことかといいますと、キリスト教的な観念のことを言っているのです。
 キリスト教の観念は、自分が救われたいという気持ちが先に立っているのです。救われたいという気持ちが先に立ちますと、肉の思いになってしまうのです
 イエスは、自分の魂を救おうと思うのは、それを失うと言っています(ヨハネによる福音書12・25)。

 キリスト教信者は、皆、自分が救われたいと思うから、教会へ行くのです。これが間違っているのです。ここが、キリスト教の致命的な欠点になるのです。救われたいと考えなければ、教会へは誰も行かないのです。救われたいと考えて教会へ行けば、命を失うのです。だからイエスが、つまづきの石になるのです。ここが難しいのです。
 そこで、般若心経の色即是空、五蘊皆空、究竟涅槃を用いて説明すると、一番分かりやすいのです。
 悔い改めて福音を信じるとはどうすることか。悔い改めるとは、親不孝をしたことをあやまったり、お金を返さなかったことをあやまったりすることではないのです。物の考え方の根底をひっくりかえすのです。
 パウロは、心を新にすることによって、造りかえられるといっています(ローマ人への手紙12・2)。心をかえて新にせよとは、別人になってしまえという意味なのです。心の持ち方を、やりなおせというのです。このためには、般若心経の色即是空、五蘊皆空が、一番てっとり早いのです。
 ヘブル人にはへブル人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のように、日本人には日本人のように聖書を説こうと思えば、般若心経を活用するのが一番てっとり早いのです。
 別に般若心経でなくてもいいのですが、日本の神道には、色即是空のような思想がありません。だから、般若心経を説明するのが、一番いいようです。
 東洋文化と西洋文化を一つにまとめることが、日本人の使命であると考えてもいいと思います。もう、西欧文明は行きづまっています。国際情勢はどうなるか分からないのです。
 聖書に対する新しい見方、人生に対する新しい見方、死なない命を見つけるための新しい世界観創建は、日本から提唱されるべきだと考えます。その意味で、般若心経は、大きな役割りを演ずべきだと思います。
 般若心経の空という思想は、単なる意見ではないのです。これを、イエスを信じるための足台にしますと、非常に良く分かるのです。
 神を信じるというのは、自分を信じないことです。肉体的に生きている自分を、信じないのです。こういう思いきった感覚を持たなければ、本当に神を信じることはできません。
 神を信じるとは、英訳の聖書では、ビリーブ・イン・ゴッド(beleive in God)となっています(ヨハネによる福音書14・1)。
 神を信じるのではなくて、神において信じるのです。神において、物を見るのです。
神において物を見ようと思いますと、自分の気持ちを捨ててしまわなければできません。だから、般若心経の色即是空、究竟涅槃が、一番てっとり早いのです。




[PR]動画