54釈尊が見た明けの明星と、人間完成はどのような関係があるのでしょうか。

 明けの明星については、二通りの意味があります。イエス・キリストの復活が現れるまでに用いられている明けの明星と、復活の後に用いられている明けの明星と、二通りあります。
 聖書全体の流れを皆様がご承知になれば、よく分かることなのですが、ヘブライ語の原文で、イザヤ書やエゼキエル書に、明星という文字がそのまま使われてはいませんが、輝くものとか、尊いものとかいう言い方で、明星と同じ内容の言葉が使われているのです。光れるものという言い方をしている所もあります。輝くとか、光るということが、地球が造られたことの原点に関係があるのです。本当の輝くということが、命の完成を意味しているのです。このことは、東洋人にとって非常に難解なことなのです。
 釈尊が明けの明星を見たということは、東洋人として、見るべからざるものを見たことになるのです。これは、地球が存在していることの秘密なのです。
 釈尊が明けの明星を見たということは、伝説的に日本に伝わっています。釈尊という人物の人格から考えて、ありそうなことですが、釈尊が明けの明星を見たのはどういうことなのか。一体何をさすものなのかが、いまの仏教界に分かっていないのです。

 明星は、良い意味におけるものと、悪い意味におけるものと、二つの意味があるのです。
 地球が造られたことが、明星に大関係があるのですが、地球が造られる前に、物のあり方の典型があったのです。この世が始められる前とか、創世以前という言葉が、新約聖書にたくさんでてきます。これが現代人にとってどういうことか、全然分からないのです。
 新約聖書に、「私は口を開いて誓を語り、世の初めから隠されていることを語りだそう」とあります。(マタイによる福音書13・35)神が口を開いて菅を語るとは、一体どういうことかということです。

神は元来、一方的に何かをすることはありません。例えば、「神が光あれと言いたまいければ、光があった」という言葉があります(創世記1・3)。そのように、神が独語するという形で、神の口が開かれることによって、宇宙の構造が変化しているのです。日本人には、生ける神が口を開くというような、広大無辺の思想がないのです。これは日本人だけではなくて、中国人でも、インド人でも、東洋人全体で、神が口を開くという思想は、聖書以外にはないのです。
 神は絶対者であって、絶対者が口を開くと、絶対的な動きが現れてくるのです。神が口を開いて譬を語るとはどういうことかと言いますと、神の思想の原点のようなものが、そのままきわめて素朴な状態で、むき出しに言われているのです。
 譬とは何かと言いますと、仏教的に言えば、曼陀羅(まんだら)になります。皆様が肉体的に生きておいでになることが、譬なのです。皆様の命は、蔓陀羅なのです。実物とは違うのです。死ぬにきまっている命は、譬としての命なのです。
 人間存在そのものが、蔓陀羅なのです。譬です。現在、皆様が生活しておいでになる地球という惑星が、誓なのです。太陽があることが、譬なのです。太陽系宇宙が存在することが、蔓陀羅であり、譬であって、これを譬として読むような大きな思想、大きな度量がなければ、本当の真理をつかまえることはできません。
 私がお話しているのは、何かの情報とか、宗教を述べているのではないのです。皆様が現世にお生れになって、今日までの間、色々な学問とか、常識、世間並の通念を色々と経験されたのですが、これはすべて譬だったのです。
 皆様が現在生きておいでになることが、譬なのです。譬というのは、端的に言いますと、情報なのです。日本の憲法でも、国連憲章でも、譬なのです。日本国憲法とか、国連憲章といいますと、絶対的なもののように思えますけれど、だいたい地球があることが譬なのです。そういう大きい立場から、永遠を考えて頂きたいのです。こういう考え方が、日本にはないのです。
 日本の国があることが、譬なのです。天皇制は、すばらしい事がらの譬なのです。女性がいることが、譬なのです。こういうことが本当に分からなければ、本当の人生を捉えることはできません。こういう事は、どんな本にも書いていません。誰も語ったことがないのです。
 今まで、皆様がご経験になった学問とか常識は、全部情報ばかりでした。宗教も、道徳も、法律も、すべて情報です。日本の憲法が情報なのです。
 日本人という立場で考えますと、憲法は絶対です。しかし、日本があることが、譬なのです。天皇制がすぼらしく崇高なことの、譬なのです。こういう思想は、日本にはないのです。しかし、これが分からなければ、永遠の命は分かりません。永遠の生命を知るためには、聖書の中の急所をまず勉強しなければならないのです。
 釈尊が明けの明星を見たという事件の前に、イザヤが現れています。彼は、今から、二千六百年程前の人です。釈尊が現れたのは、今から二千五百年程前です。イザヤは釈尊より前にいたのです。イザヤは、天から明星が落ちたと言っているのです。これが悪魔なのです。明星が稲妻のように、天から落ちたのです。イエスはそれを見たと言っているのです。
 一体悪魔とは何かということです。悪魔の正体が分かってくると、初めて、全世界に対する見方が変ってくるのです。悪魔が天から落ちたということは、霊の世界から闇の世界へ落とされたのです。
 悪魔がいた霊の世界は何かといいますと、旧約聖書は次のように述べています。

    「あなたは知恵に満ち、

    美のきわみである完全な印である。

    あなたは神の園エデンにあって、

    もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。

    すなわち赤めのう、黄玉、青玉、貴からん石、緑柱石、縞めのう、

    サフヤイヤ、ざくろ石、エメラルド。

    そしてあなたの象眼も彫刻も金でなされた。

    これらはあなたの造られた日に、あなたのために備えられた。

    私はあなたを油そそがれた

    守護のケルブと一緒に置いた。

    あなたは神の聖なる山にいて、

    火の石の間を歩いた。

    あなたは造られた日から、

    そのおこないが完全であった。

    あなたの商売が盛んになると、

    あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。

    それゆえ、わたしはあなたを神の山から汚れたものとして投げ出し、

    守護のケルブはあなたを、

    火の石の問から追い出した。あなたは自分の美しさのために心高ぶり、

    その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、

    わたしはあなたを地に投げうち、

    王たちの前に置いて見せ物とした。

    あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によって、

    あなたの聖所を汚したゆえ、

    わたしはあなたの中から火を出して、

    あなたを焼き、あなたを見るすべての者の前で、

    あなたを地の上の灰とした。

    もろもろの民のうちであなたを知る者は皆、あなたについて驚く。

    あなたは恐るべき終りを遂げ、

    永遠にうせはてる。」

      (エゼキエル書28・11〜19)

 これを簡単に言いますと、神の山とは、神のいる場所、神のジャンルです。そこに輝くもの、栄光の固まりのようなものがあった。それが反逆するきざしが見えた。そこで光り輝くものを、石ころのように取扱わなければならなくなった。これが悪魔なのです。
 悪魔とはどういうものかと言いますと、大天使なのです。大天使とは何を意味するかと言いますと、すべてのエネルギー全体を支配する役割を与えられていたのです。これが天使長なのです。
 神がそういう人格を選んで、神の国の大番頭にした。総支配人にしたのです。神は自ら仕事をしません。神は意志そのものであって、御心(みこころ)そのものです。御心とはウィル(Will)なのです。命には意志があります。命の意志が神なのです。
 神の意志に従って、法則(ルール)が発生します。これがワード(Word)です。これが神の言葉です。それから、神の意志、または本質に従う働きワーク(Work)があります。第一の神が(Will)、第二の神が(Word)第三の神がWorkです。三つのWがあるのです。
 第一の神は、宇宙の根本的な意志です。第二の神は言葉です。第三の神は働きです。これは、原理、原則、原動力ということもできるでしょう。大宇宙には、原理、原則、原動力があるのです。大宇宙のエネルギーは、こういう形でできているのです。第一の神は父なる神、第二の神は子なる神、第三の神は御霊(みたま)なる神です。これを三位一体の神というのです。これは聖書独特の神であって、聖書以外にこういう神はありません。
 三位一体の神は、自ら自分を現すことをしません。それを天使に任せているのです。神につかわされて、神の心を顕現する働きをする天使があるのです。この天使にも、二種類あるのです。物理的に働く天使と、心理的に働く天使とがあるのです。
 とにかく、宇宙は、皆様が常識で考えておいでになるようなものではありません。地球構造は、人間の常識で考えるような単純なものではないのです。もっと重厚で幽遠なものなのです。
 この宇宙に死がどうして発生したのか。死の法則とは何か。万物が死ぬ、人間が死ぬのはなぜかということです。やがて地球は崩壊します。物理的な法則は、単なる法則ですから、変化することは充分にありうるのです。暫定的なものなのです。
 ところが現代の物理学は、物理法則が絶対だと考えるのです。これはどこまでも物理学の考えであって、命は学問よりも大きいのです。命は地球より、太陽よりも大きいのです。太陽は命を顕現しているだけであって、絶対ではないのです。もっと大きいものがあるのです。
 自分の中に、自分よりも尊いものがあります。天の中に、天よりも高いものがあるのです。皆様の中にある命は、皆様よりも高いのです。命という絶対最高のものを、人間という形式で、皆様は経験しておいでになるだけのことなのです。皆様が偉いのではないのです。
 福沢諭吉の言うように、独立自尊は間違っています。独立自尊を言うと、人間はかえって小さくなってしまうのです。もっと大きく見ようと思ったら、自分の中に自分よりも高いものがあることを、見つけなければいけないのです。
 福沢諭吉は、天は人の上に人を造らなかったと言いましたけれど、神は人間よりも大きい人間を造ったのです。これがイエスなのです。これを日本人は知ろうとしないのです。
 日本人の教養は、きわめて低いのです。日本の大学のレベルが低いのです。学間の中に学間よりも高いものがあるのです。これを発見しなければならないのです。
 一体死の法則が、この宇宙にどうして発生したかということです。大天使は、自分の中にある栄光、輝き、知恵、力が、自分自身の力であるという錯覚をしたのです。そして自ら神であろうと考えた。自分の思想を、神よりも高い所におこうと考えた。自分の位を、神よりも高い所におこうと考えたのです。大天使が神に反逆した結果、悪魔になったのです。
 悪魔が独立自尊したのです。
 人間よりも、生きているという事実に目をつけて頂きたいのです。学理学説とか、人間の経験に目をつけないで、人間の本質、生きているという事に、目をつけて頂きたいのです。
 太陽は、天にあるものをシンボルにしているだけなのです。太陽は絶対ではないのです。太陽系宇宙がある間は絶対ですけれど、太陽系宇宙は永遠のものではないのです。従って、地球も永遠のものでないのです。
 現在の地球は未完成です。こういう大きな思想をあたりまえのように考えて頂きたいのです。そうすると、男と女の問題も解けてくるのです。
 皆様の生活の行きづまりとか、困難さは、とるにたらないことです。第一に考えなければならないことは、死という法則が宇宙に存在していることです。そういう法則がどうして宇宙に存在するかということです。
 この原理が悪魔です。悪魔の説明が、キリスト教ではできないのです。キリスト教以外の宗教でも、悪魔の説明ができる宗教は一つもありません。
 死の法則が発生したので、神がこれを始末しなければならなくなった。大天使が自ら神であるかのように考えたことが、死の法則が発生した原因なのですが、それについて神が責任を持たねばならなくなったのです。
 死の法則はどうすれば消えてしまうのか。神が全知全能の力によって、悪魔を叩き潰すことはできます。ところがそうはいかない。なぜかといいますと、神は完壁無類の方法をしたいのです。神が全能力を持って悪魔を踏み潰すことは簡単です。そうしても、悪魔は神の上に立とうとした考えをやめないのです。自分ほどの能力があれば、神の座にすわるのは当然だという考えを、撤回しないのです。
 悪魔を叩き潰せば、悪魔はいよいよ恨みが残って、悪魔自身の神に対する憎しみが固まってしまうだけなのです。               
 死が単なるエネルギーなら、これをつぶすのは何でもないのですが、単なるエネルギーではないのです。嘘の世界を創造する恐るべき心理的エネルギーなのです。だから神でもこれを叩き潰すことができないのです。
 皆様は自分は死なねばならないと思っているでしょう。死なねばならないということをわたしがいくら論破しても、皆様はそう言われればそうかもしれないが、やはり死ななければならないと思われるでしょう。精神的な思想は、上からいくら押さえつけて捻り潰してもだめなのです。悪魔が自ら神になろうと考えて、反逆した。この考えが間違っていることを、悪魔自身が悟るように、仕向けなければならないのです。
 皆様の場合でも同じことがいえます。皆様が死ぬべきものではないということを、いくらお聞きになってもだめでしょう。自分は死ぬのだという気持ちが、皆様の中から消えてしまわなければならない。自分は死ぬのだという気持ちが皆様の中にある間は、どんなに悠遠な論理を展開しても、皆様はその論理を聞いておいでになるけれども、自分は死ななくなったとは思いません。やはり死なねばならないという気持ちを持ったままで、話を聞いているだけなのです。皆様ご自身が、本当に死が嘘だということをお悟りになる以外には、どうしようもないのです。
 そこで、死の法則を黙らせるためには、死の法則自身が自滅することを考えなければならないのです。これが神の天地創造の根本原因なのです。
 旧約聖書の一番最初に、創世記があります。創造記と言わずに、創世記と言います。ここにご注目頂きたいのです。
 創世というのは、物が造られたのではないのです。物はなかったのです。太陽はなかった。地球はなかったのです。植物も動物も、鉱物も、一切存在しなかった。物は宇宙には存在しないのです。
 例えば、アンドロメダ星雲は、全くのガス体なのです。銀河系宇宙もそうです。太陽系宇宙以外は、全部ガス体です。そこに固体の惑星があるように天文学者は言っていますが、それはユダヤ主義の学説であって、本当に見てきたのではないのです。単なる推測の概念に基づくのです。
 人間の推測は、決して正しいものではありません。だいたいこうだろうという判断なのです。地球に生きている人間が判断すると、地球のようなものが他にもたくさんあるだろうという判断になるのです。太陽系宇宙だけには、地球に似た惑星があります。しかし地球とは全然違うのです。命は全くありません。地球から遠く離れてしまうと、同じ太陽系宇宙でも、海王星とか冥王星は、ほとんどガス体の可能性が強いのです。
 いわゆる惑星は、ガス体であることが原則なのです。大地があるような惑星があるとしても、そこには生命体は全然ありません。地球は全く独自の存在です。地球という不思議な惑星が太陽系にあることは、宇宙の謎なのです。
 何のために地球があるのか。私達は地球に住んでいますから、これがあたりまえだと考えやすいのですが、それは地球に住んでいるものの単なる常識であって、植物がある惑星、動物がいる惑星は、どこにもないのです。
 地球以外に人間がいる惑星があるだろうという仮説は、ユダヤ人がつくったSFであって、これは全くの作り事なのです。
 そういう意味でも、現代人の物の考え方は、非常にいいかげんなのです。地球が地球であるというのは、すばらしく高い合理性がある証拠なのです。大宇宙における唯一無二の絶対的なシンボルなのです。そういうものを何のために神が造ったのかというと、死を自滅させるためなのです。
 万物を造るというかっこうで、実は世が造られたのです。ゼネレーションが造られたのです。今は万物が存在するという不思議な世代なのです。やがてこの世代は消えてしまいます。万物が存在するというのは、宇宙の異常現象です。太陽系宇宙の異常現象であって、ハプニングなのです。
 物質が存在する地球にいれば、物質が存在するのがあたりまえのように考えられる。これは地球にだけ通用する常識、または学識なのです。地球以外には、この考えは通用しません。こんな緻密で周密な合理性は、再び宇宙に現れることはないでしょう。
 すばらしい合理性が、今地球で生命現象として展開しています。神が口を開いて譬を語っているのです。これが天地創造の大原則なのです。
 地球が何のために存在するのか。死を滅ぼすためです。悪魔を自滅させるために、神が万物という物質的な構造が現存するような世界を造ったのです。
 物質的な構造の世界を造ることによって、なぜ悪魔が自滅するかということです。般若心経によれば、「色即是空」である。物質的現象は空である。実体的には存在しないと喝破している。そして「是諸法空相」存在するすべてのものに、現象的な実体はない。それがこの世においての本当のあり方だといっている。従って、「無限界乃至無意識界」視覚の領域から意識の領域に至るまで、ことごとく存在しないと言っているのです。
 般若心経は東洋人とか、地球全体の人間の考え方の間違いを指摘しているだけではなくて、宇宙全体に存在する悪魔の反逆の根本思想が、根底から間違っていると喝破した恐るべき大思想、大哲理なのです。異邦人の中から、宇宙全体の誤謬にかかわる間違いを指摘したというのは、全く破天荒な考えであるといえるでしょう。般若心経は人間の思想を超えた、宇宙の真理といえるのです。

 パウロは新約聖書の中で、「アブラハムは無きものをあるかごとく呼びたもう神を信じた」と言っているのです。(ローマ人への手紙4・17)現象世界は実体的には存在しないが、あたかも実在するかのように神が見せかけているのです。これは全く奇妙な世界であって、人間は夢幻の世界の中で生活をしているのです。
 物質的現象世界が存在しないということは、理論物理学で考えればよく分かるのです。物質は原子の活動によって成立している。原子核の回りを電子が回転するから原子構造が成立している。物質が存在するのではなくて、電子の運動があるだけなのです。私達は電子の運動を物質という状態で見せられているだけなのです。
 科学者は、時間、空間が実在するといいます。時間が果たして実在するのでしょうか。もし一時間という時間が存在するのなら、電子が運動しない固定した時間があることになります。そうすると万物は瞬間的に消滅するでしょう。
 時間も空間も、すべて流動的に存在している。川の流れのように、すべては流れ動いているのが真相ですが、人間は固定した物質的存在があると思いこんでいる。こうした人間の考えがどこから出てきたかという問題になるのです。
 これは旧約聖書の創世記に聞かなければ分からないでしょう。創世記の冒頭に、「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」とあります(1・1、2)。
 この記述について徹底的に解説しようとすると、膨大な話になりますので簡単に述べておきますと、悪魔が淵という固定的なものが存在すると錯覚したのです。淵というのは川の流れの澱んだ所で、いわゆるわだと言われる部分なのです。
 これは天地創造以前の、神と悪魔の思想状態を比喩的に言い現したものですが、悪魔は固定的、停止的な思想を主張し始めたのです。淵というのは水が深くよどんでいるが、やはり少しつつ動いている。非常に緩慢な流れではあるが、流動しているのです。しかし悪魔はその表面だけを見て、固定的、停止的な状態が存在すると考えたのです。悪魔独自の固定的な立場が存在すると主張し始めたのです。この悪魔の考えが人間に反映した結果、目に見える現象世界が実在すると思いこんでしまったのです。
 人間はすべて、物質的現象が実体であると考えている。これは悪魔の思いそのものを信じていることになるのです。この意味で言えば、人間は全部悪魔の支配下にあることになるのです。
 ところが、「神の霊が水のおもてをおおっている」という事実があるのです。水のおもてとは水の本質ということです。すべての存在の本質には、命のエネルギーが働いている。これが神の御霊の働きなのです。
 一体、悪魔の思想が正しいか、神の思想が正しいかを人に判断させるために、この両者が現象的に経験できる形で現れた。これが天地創造の原因なのです。
 その次にぜひ知っておいて頂かなければならない問題は、陥罪という事件です。これが男と女との関係に重大な影響を及ぼしています。いわゆる善悪を知る木から取って食べたという事件です。
 これを詳しく述べれば、これも又膨大な論理の展開になるのですが、簡単に言いますと、神が人間の祖先であるアダムに、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言われたのです(創世記2・16、17)。
 ところがへびは、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」と反論した。(同3・4、5)そして、木を見ると、「それは食べるに長く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べた」(同3・6)とあるのです。
 これは御伽噺のような記述ですが、人間が死んだという驚くべき心理的変化を、如実に書いているのです。本来、人間は死ぬべきものではなかった。死に関係がなかった。それが決定的に死んだのはなぜかと言いますと、自分という立場に立って、善悪利害を判断しはじめたからです。宇宙には、善も悪もない。利益も損害もない。ただ神という事実があるだけです。それを、自ら善悪を判断する人ができた。
 人は善悪利害得失毀誉褒貶を判断する時、自分を絶対とするという場に置いている。つまり自分が神という場に立っているのです。
 本当に善悪利害を判断できるのは、神しかいない。人間が善悪の判断をするというのは、誠の神を押しのけて、神になったということです。「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった」 (同3・22) とあるのは、人間が神のようになったことを意味しているのです。その結果、人間はあらゆる矛盾、悩み、混乱を背負い、死ぬことになったのです。
 死ぬべき状態に陥った人間が、どうしたら死なない元の状態に帰ることができるか。これは人間の本質をもう一度見直す以外にはないのです。肉体的存在の自分ではなくて、生理機能、心理機能の本質である魂を見ることなのです。
 現在の男女関係は、肉体的にしか考えていません。セックスというのは、肉体的なものではないのです。
 人間が生きているのは、肉体ではない。人間の本質は、マインド(Mind)なのです。マインドの本質は、宇宙構造の謎みたいなものです。
 神はウィル(Will)です。人間はマインドです。神は御心です。人間の本質は精神なのです。ウィルとマインドの関係が分かると、始めて、神をつかまえるにはどうしたらよいかが分かってくるのです。
 命をつかまえれば、死ななくなるのです。

 神は、地球の中から死を締め出す方法をとっている。そのやり方が理解できれば、自分の人生から、死を放逐することができるのです。そのためには、陥罪という事件を、もっと詳しく勉強して頂きたいのです。
 その次にノアの洪水という事件があります。人が地にふえて、人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりとなったので、神は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」言われて、大洪水を起こしたのです(同6・5ー7)。
 ノアの洪水という事件が、日本人には全く分かっていない。キリスト教でも分かっていないのです。なぜ洪水という事件があったのか。洪水と現在の人間の関係はどうなるのか。ノアの洪水によって、人間が全部滅びたと書いている。ところが、現在63億もの人間が地球上にいるのです。この関係がどうなっているのかということです。キリスト教は、こういうことを説明しなければならない責任があるのです。ところが、全然説明しようとしない。全く説明できないのです。
 ノアの洪水の後に、虹が現れた。アインシュタインは、虹がどうして発生したのか説明ができないと言っているのです。現在の文明は、虹のようなものです。皆様の肉体は幻なのです。地球も幻なのです。これを神が、虹と表現しているのです。
 宇宙は永遠というテーマによって存在しているのです。永遠というテーマによって自分を見れば、死という思想は消えてしまうのです。
 旧約聖書はユダヤ人に与えられたものですが、ユダヤ人問題が現在の歴史の根底に係る大問題なのです。アブラハムが神と契約を結んだ。この時、ユダヤ人を中心にして、全世界の歴史が展開することが決定されたのです。これがユダヤ人問題の根本であって、これが分かると初めて、世界歴史の謎が分かってくるのです。
 世界に、白人と、黄色人と、黒人がありますが、なぜ三つの種類の人間がいるのかということです。これも旧約聖書に書いています。世界歴史の秘密は、全部聖書に書いているのです。聖書は地球の歴史の宝庫ですが、この説明がキリスト教ではなされていないのです。
 ユダヤ人の王の中に、ダビデという人がいますが、この人から、世界を統一するという思想が流れ出したのです。これがメシヤ思想です。
 ダビデという王の世界観によって、人間が完成することが打ち出された。どのように完成するかというと、メシヤという形で完成するのです。ヘブライ語でメシヤ、ギリシャ語でキリストです。
 地球が造られた原因は、キリストが実現するためである。メシヤが現れるために、人間の歴史が展開していると預言しはじめたのです。
 それから、イエスが現れたのです。イエスは、ダビデの思想を、そのまま現実の人間として生きたのです。ダビデは思想としてのメシヤを考えた。イエスは思想としてではなく、自分の命の実質において、神を生きこなしたのです。全知全能の神を生きこなしたのです。
 それから一番大きな問題は、イエスの十字架ということです。これについては相当多くのことを論述しなければなりませんが、簡単に言いますと、イエスが十字架につけられたことが、人間自身の中から死が完全に追放されたことなのです。死が追放されたというこdは、肉が追放されたということです。死とは肉の思いです。肉の思いとは、現在の人間の常識、知識です。死ぬにきまっている人間が、イエスの十字架によって、なくなってしまったのです。
 イエスの十字架によって、悪魔の本性である死が、消えてしまった。イエスの十字架を徹底的に勉強すると、死がなくなっていることが分かるのです。十字架による神の処置を、どのように受けとるかということが、新約聖書の中心問題ですが、これがキリスト教では全く隠されているのです。
 イエスは死んで復活したのです。現在、復活したキリストはどこにいるのか。これも聖書に書いています。
 復活のキリストが、再び来たるという問題があります。この時、人間の歴史が、文字通り新しくなるのです。悪魔的な思想が、地球上の人間文明から完全に追放される時代が来ます。戦争が無くなるのです。人間の中から泥棒根性が消えてしまうのです。地震がなくなる。台風がなくなる。地球が本当の楽園になるのです。これは必ず実現します。
 これが分からなければ、本当の命をつかまえることはできないのです。この世に生れてきた以上、人間はこれだけのことを勉強しなければならない責任があるのです。
 釈尊が見た明けの明星と言うのは、肉から霊へ移るという非常にスケールの大きい問題になるのですが、釈尊は明けの明星を見て、現在の人間が根本的に間違っていることを直感したのです。




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