4観自在菩薩とはどういう菩薩でしょうか

観自在菩薩というのは、人間本来の魂の本性のようなものです。
 日本の禅宗の中興の祖といわれる白隠和尚がいます。徳川時代の人で、妙心寺を復興した人ですが、この人が、人間は、自分自身の欲念を去って、煩悩をすてて自分自身を見ることができるなら、誰でも、観世音菩薩になれるといっているのです。
 自分の煩悩を捨てて、物を見ることができるなら、誰でも、観自在菩薩になれるのだと言っている。観自在といっても、観世音といっても、同じことなのです。
 観自在菩薩というのは、人がこの世に生れた本性なのです。実在の人間の本体が、観自在菩薩なのです。
 普通の人間は、この世の常識で生活しています。常識で生活している人間は、自分で生きているのです。この人間は死んでいくのです。
 生かされている自分を自覚するのです。これが観自在なのです。人の本心は、誰でも生かされている人間であって、観自在菩薩なのです。観世音菩薩なのです。本具の自性という言葉があります。本具というのは、生れる前に人間が備えていた自性です。これが、観自在菩薩なのです。
 人は、この世に生れる前に、この世よりも、もっとすばらしい所にいたのです。生れてきたといいます。どこかから来たのです。死んでいくといいます。どこかへ行くのです。どこかから来たというのは、現世ではない所から、人は生れてきたのです。現世ではない所というのは、先天性という所です。ドイツの哲学では先験性といいます。これは、人の中にあるのです。人の生命の本質が、これなのです。
 ところが、この世に生れてから、人の魂が狂ってしまったのです。この世は業のかたまりであって、人間がこの世へ生れたことは、業の中へつっこまれたことなのです。生れてきたことが、業なのです。カルマです。カルマが、人にこびりついているのです。人間の常識、知識は、カルマの働きなのです。カルマが働いて、常識、知識となったのです。
 業を果たすということは、私達の常識を果たしてしまうことなのです。果たすとは、なくしてしまうことなのです。乗り越えることです。
 常識をのりこえると、生れる前に持っていた本当の命が分るのです。これを、悟りというのです。
 これは宗教ではできないのです。生れる前に持っていた自分の本性を、はっきりつかまえるのですから、宗教ではないのです。
 観自在というのは、偉い人ではなく、人の中に住んでいる偉い人なのです




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