21般若心経と聖書を両方学ぶ必要がなぜあるのでしょうか

 般若心経と聖書の関係ということですが、キリスト教では悔い改めて福音を信ぜよといいます。悔い改めるとはどういうことかと言いますと、人に嘘をいったり、約束を破ったり、親不孝をしたり、憎んだり、やきもちを焼いたりしたことを、悪かったと認識することだと考えているのです。
 これはもちろん悪いのです。嘘を言うのが悪いことは、誰でも知っています。知っていながら、嘘をつかざるをえないような気持ちになってしまうのです。問題は、嘘をつく根性がどうしてあるのかということです。
 イエスが言っている悔い改めよというのは、人間の精神構造の根本を改めよといっているのです。パウロは、心をかえて新にせよとか、心の霊を新たにせよといっています。心の霊とは、英文で見ますと、ザ・スピリット・オブ・ザ・マインド(the spirit of the mind)になっていまして、精神の霊となるのです。精神の霊を改めるとはどうすることか。これをキリスト教では教えてくれないのです。つまり、人間が自我意識又は現象意識に基づいて生きていることが、人間の罪なのです。原罪なのです。
 自分が生きていると考えることが、原罪であって、般若心経の空という思想によって、自分自身が生きているのではないということを確認することが、キリストを信じるための前提条件として、どうしても必要なのです。
 自分が死んでから天国へ行きたいという考えではなく、本当に命の勉強をしたい、イエスが生きていた彼の命を本当に信じたいという気持ちがありましたら、無我という感覚をどうしてもマスターする必要があります。
 自分が救われたいという考えが、だいたい間違っているのです。イエスは、自分の命を愛する者は、必ず滅びるといっているのです。イエスのために命を失うものは、かえってその命を守ることができるという言い方をしているのです(ヨハネによる福音書12・25)。
 つまり、自分の命を愛してはいけない。自分の魂が救われたいと考えてはいけないということを、イエスはしきりに言っているのです。ところが、今のキリスト教は、自分が天国へ行きたいと思っている人間ばかりが教会へ行くのです。これが宗教の悪い所なのです。イエスが考えていたことと全然違ったことを、カトリックも、プロテスタントも教えているのです。そこで、キリスト教は間違っていると言わざるを得ないのです。キリスト教はイエスが言っていなかったことを言っているのですバイエスの復活の命の本質を、はっきり人に教えることをしないのです。死んでから天国へ行くというややこしいことを言って、ごまかすのです。
 死んでから行くか行かないかは分からない。死んでから天国へ行くとか、極楽へ行くという言い方が、宗教のいんちき性を暴露しているのです。に入れと言っているのです。
 父の御心を行うものは、生きているうちに天国へ入れるとはっきり言っているのです。つまり、イエスの生活が天国の生活であったのです。彼は生きているうちにはっきり天を見ていたのです。これは見れるのです。
 生きている間に、充分に永遠の生命の実体をつかまえることはできるのです。はっきり死なない命を経験できるのですから、イエスが言ったことは嘘ではないのです。私達は、本当にイエスが生きていたその実質を勉強すれば、死なない命がはっきり分かります。
 現在の日本には、宗教はたくさんありますが、本当の命を勉強している人が、個人的にも、集団的にも、ほとんどありません。そのために、現在の日本人の世界観や価値観に、大変な間違いが起こっているのです。
 つまり現在の日本人の考え方、従って全世界の人々の考え方といってもいいのですが、現代人の物の考え方そのものが、死ぬべき人間の考え方になっているのです。死んでいくにきまっている人間の考えを、無条件でのんでいるのです。これは全くバカな考えです。そういう考えではない、もう一つの、本当の人間の見方があることを、言いたいのです。
 今の文明の本質が、人間の本質を無視しているのです。文明ははっきり間違っているのです。だから、般若心経の五蘊皆空という思想が、非常に参考になるのです。
 宗教としてではなく、道楽としてではなく、本当に般若心経の色即是空、五蘊皆空を学ぶ必要があるのです。
 それから聖書を学ぶと、本当の命が分かるのです。ですから、般若心経と聖書の両方を学ぶ必要があるのです。




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