52念仏という易行で成仏できるのでしょうか。
 念仏というのは、阿弥陀如来の名号のいわれをよく聞いて、心にとめること、そして念仏することです。阿弥陀がよく分からないままで、いくらナムアミダブツといっても空念仏になります。とても阿弥陀と一つにはなれません。
 今までの常識が間違っていると本当に考えて、自分の命の本体をよくわきまえたいとお考えになれば、あなたの常識の土台が動くのです。常識の土台が動き始めると、その人は仏になりかかっているのです。
 般若心経で言いますと、無眼界ないし無意識界といっています。目で見ている世界はない、人間の心で考えている世界もないといっています。これが、五蘊皆空の説明になっているのです。
 人間がいると思っているのは、自分の思いであると思っている。例えば、花が咲いていると思って見ている。花は咲いています。しかし、目がどのように働いているかをよく考えてみて下さい。目で見ているのは、心臓が動いているから見えるのです。
 従って、人間の目で見ているというのは、息を出したり、すったりしていると同じように、見ているのです。瞬間、瞬間、見ているのです。人間の命は、一時間、二時間続いているのではなくて、生理機能にともなって働いているのです。心臓が動いているのは、瞬間、瞬間なのです。見ているのも、瞬間なのです。  
 ですから、一時間前に見た花と、今見ている花とは違うのです。一時間どころか、五分前の花と、今見ている花とは違うのです。地球はたえず動いているのです。地球が動いていることは、人間の気持ちもたえず新しくならなければならないのです。
 人間は物を見ますと、それがあると思えるのです。建物は三年や五年では変わりませんから、同じものがあるように思えます。ところが、物質は継続的にあるのではないのです。それを人間は、継続的にものがあると思っている。これが迷いなのです。
 デカルトは、「人間の心はたえず動いている。しかし物質は継続的に存在している」といっています。だから心と物は全然違ったものであるといっている。これが間違っているのです。学者は、こういう間違いを世界にばらまいているのです。学者、特にユダヤ人学者が神を見そこなったこと、命のつかまえ方を間違えたことが、全世界の歴史が混乱している根本原因なのです。こういうことが、日本人には分からないのです。
 人間の常識、知識は、根本的に間違っています。本当ではないことを信じこまされているのです。人間の肉体は機能の集合体です。昨日の自分と、今日の自分とは、はっきり違っています。だから、毎日毎日、気持ちを新しくしなければならないのです。
 しかし、人間は、五年前、十年前の常識で生きています。これが間違っているのです。
 ただ念仏をとなえているだけではだめで、その名号のいわれを心にとめる、名号の実体をよく知ることが必要なのです。




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