51般若心経の中の空と無の実体は何でしょうか
 空には二つの面があります。まず消極的な面についてお話しします。
 生きていることが、本質的にむなしいのです。なぜむなしいかといいますと、現在の人間が肉体的に生きていることは、死ぬにきまっているからです。
 肉体は消耗品です。新陳代謝する消耗品であって、脱がねばならないにきまっているのです。人間が生きているのは、夢幻の世界に生きているようなものであって、生きているのではなくて、眠っているのです。何が善であるか、何が悪であるか、よく分からないのです。空といっても、なかなか分からないのです。
 命とは何かという本質については、まるで分からないままに生きています。これは、夢幻の世界を生きていることになりますがだから、般若心経は五蘊皆空といっているのです。夢幻の世界の常識で生きていることは、皆間違っていると、般若心経は言っているのです。
 釈尊はこれに気づいたのです。五蘊皆空に気づいたのです。ところが、今生きている人間の命の本質は何かを、釈尊は説明しなかったのです。説明できたかもしれないが、はっきり説明する段階ではなかったでしょう。
 キリストが生れる四、五百年前のことでしたから説明できなかったのです。新約聖書は、命を提供するといっているのです。人間が生きていることの中に、命がある。命は人の光である。これをつかまえれば、誠の光がつかまえられと言っているのです。
 これを仏教的に言えば、命を無量寿如来というのです。光を無量光如来といいます。人間はまだ本当の命を通して、本当の光をつかまえていない。それは、命に対する見方が間違っているから、本当の光がつかまえられないのです。
 私達は、いつも太陽の光を見ています。陽のあたる場所と、日陰では、全然感じが違います。どのように違うかを、よく経験しているのです。どう違うかがよく分かれば、命が分かるのです。これは何でもないことなのです。
 ところが、人間の常識を持ったままでは、分からないのです。常識は五蘊皆空で、皆間違っているのです。常識を捨ててしまわなければ、日向の値うちが分からないのです。常識を捨ててし字えば、日向の本当の意味が分かるのです。
 空とは、人間の常識がむなしいものだといっている。これが空の消極的な面です。
 積極的な空というのは、無為ということです。無為とは、何もせずにばかんとしていることではないのです。老子という学者が言ったのは、無が働くといっている。無が何かをしているといっているのです。
 皆様は、生れて五十年か六十年暮しておいでになりました。これは、固有名詞の人間はいなかったということです。無だったのです。ところが、人間は生きている。 これが無の働きなのです。何もなかった人間が、今日人間として生きているということは、何もなかったことの中に、何か働いているものがあるのです。
 これを仏法では因縁といっています。因縁が働いて、人間が生れたと考えるのです。ところが、因縁とはどういうことかといって質問すると、返事ができないのです。仏法には、人間を造った創造主がいないのですから、説明のしようがないのです。これは仏法が悪いのではありません。仏法は、因縁というかたちで教えているのです。しかし、命そのものを教える立場には立っていないのです。
 仏法はだめだといっているのではないのです。宗教はだめだといっているのです。宗教は、仏教でも、神道でも、回教でも、皆人間が考え出した理屈なのです。しかし、釈尊の悟りは、仏教とは違うのです。
 日本の仏教界には、釈尊の悟りを説明できる仏さんはいないのです。釈尊がどうして悟ったのか、釈尊の悟りの実体が分からないのです。
 釈尊は、人間の考え方はむなしいといったのですが、これは正しいのです。しかし、命の説明はしなかった。仏教だけでは、永遠の命は分からないのです。そこで、般若心経と聖書を勉強しなければならないのです。
 無為というのは、何もないことです。もともと、地球も人間もなかったのです。地球がなかったのに、地球ができたのです。地球が現在存在しているのは、無の力が働いているからです。これは、老子の非常に大きい哲学ですが、無の働きが何に基づいてあるのか、無が働く以上は、働くだけのルールがなければならないが、どのようなルールに基づいているかが説明できないのです。だから、どうしても聖書に行かざるをえないのです。
 老子が悪いのではない。釈尊が悪いのでもない。老子は老子だけのものです。釈尊は釈尊だけのものです。神の実物をつかまえていなかったのです。彼らは、キリストよりも、四、五百年以前のことだから、しかたがないのです。
 今はキリストがありますから、命の説明ができるのです。釈尊が説明できなかったことは、聖書を見れば分かるのです。これはあたりまえのことなのです。しかしキリスト教では説明できません。正しく聖書の勉強をしていないからです。
 人間がこの世に生れたのは、無の働きです。無が働いていることを、空というのです。無形の力、無形の原因が、有形の状態をよび出すのです。これを空というのです。これが、天地万物の姿になっているのです。
 空が分かると、初めて、安心できるのです。心臓が動いていることの意味が、はっきり分かるのです。心臓が動いている原理と同じことを考えたらいいのです。これが分かったら死なないのです。この世を去ることはあります。肉体を脱ぐことはあります。肉体を脱いで、別の世界で生きるのです。
 他界するのです。今の世界ではない、別の世界へ行くのです。死ぬのではない、他の世界へ行くのです。現象世界ではない、もう一つの霊の世界があるのです。
 霊というのは、科学的に説明できるのです。例えば、一杯のお茶をのみます。これが霊なのです。お茶の味とはどういう味なのか、これが命の味なのです。舌が味を見ているのです。味を見ているのは、神の力が舌に宿っているからです。これが本当の命なのです。今までの自分の思想を持っていたら、死んでしまいます。常識で生きていれば、人間は必ず死んでしまいます。死ぬのがいやなら、常識を捨てればいいのです。舌が何を味わっているか。目が何を見ているか。
 人の魂の働きは、霊妙不可思議なものであって、命の世界を見ているのです。頭が悪いのです。世間の思想を信じているからです。世の中の間違った思想を信じているから、いけないのです。お茶の味とは何であるか。太陽の光とは何であるか。見ていながら分からないのです。
 これを無明煩悩といいます。ばかな常識を捨てるのです。そうしますと、命の本体が分かるのです。
 人の五官の働きは、命の本体をそのまま現しているのです。五官が命なのです。五官には命の光があるのです。これが分かれば人は死なないのです。死なない生き方ができるのです。
 放っておけば、人間は皆死んでしまいます。死んでからが、大変なのです。人間は現世に生れて、一体何をしたのでしょうか。生活のことばかりを考えてきたのです。生活のことは、要するに、性欲と食欲のことなのです。
 空を、軽々しく考えてはいけないのです。人間は空から出てきたのです。出てきて、現在、幻の生活をしているのです。だから、もとの空に帰れば、死なないのです。もとの空に帰るのは、自分がなくなることではないのです。常識をぬぎすてるだけのことなのです。
 空の世界が、お茶の味に出ているのです。般若心経の中で、空という字が毒すばらしいのです。
 色即是空、空即是色、色がどうして地球になっているか。空の本質は何か。これが誠の神なのです。誠の命なのです。神が空なのです。



[PR]動画