49観世音とはどういう人でしょうか。
 花を見てきれいだということは、誰でも分かることです。この花がきれいということが、世音になるのです。砂糖が甘いとか、空の色が青いとか、蝉の声が涼しく聞こえるということが、皆世音です。世音を見ることが、観世音です。
 観世音をするためには、自分自身の気持ちを空じてしまわなければならないのです。自隠禅師が言っていますが、衆生がもし煩悩愛憎を捨てるなら、衆生は皆観世音であるといっています。
 これは何でもないことです。自分の欲とか、自分の得、自我意識を捨ててしまえばいいのです。そうすると、食物の中にある味が永遠の命であることが、分かるのです。お茶を一杯飲んでも、その中に得もいわれぬ味があります。コーヒーの薫りをかげば、それだけで永遠の命はだいたいの見当がつくのです。
 人の理性や良心は、恐ろしい能力を持っているのです。全知全能の神と同じ心理構造です。地球を造った神と、人格構造は同じものなのです。
 人は無限の能力を与えられている。だから、釈尊程度の悟りを開くのは、まじめに考えれば誰でもできるのです。イエス・キリストの信仰は、釈尊の悟りを開けば、すぐに分かるのです。
 涅槃とは、自分をぬけ出してしまうことです。自分が生きていないということが感じられることが、涅槃です。しかし、涅槃を感じた時でも、なお目は見えるのです。心臓は動いているのです。その時の命は誰の命かと考えたらいいのです。これがイエスであることが分かるのです。
 もう一度言いますと、涅槃になれば自分はいないことになります。これが成仏です。
 成仏すれば、自分は消えます。成仏した後にも、やはり目が見える。おなかがすく。おなかがすくのは誰か。それがイエスなのです。
 これが分かりさえすれば、イエスが死を破ったことは、自分自身の問題であることが分かってくるのです。これが死なない命を得ることなのです。
 涅槃になったからといって、すべてが消えてなくなるのではないのです。家庭生活もあるし、商売もするし、会社へも行くのです。生活のあり方は変わりません。心構えが全く変わってしまうのです。別の人格になってしまうのです。
 今まで生きていた固有名詞の人格ではない、本当の魂の人格が分かってくるのです。これがイエスです。これは死なない人格です。これをつかまえればいいのです。
 そのことを、阿弥陀如来と言うのであって、その時、無限の命、死なない命、無限の知恵、無量寿、無量光が分かってくるのです。自分の中に、二つの如来があることが分かるのです。これは誰でも分かるのです。そんなに難しいことではないのです。
 仏教では、阿弥陀如来というと、金縁の額に入れて天井へ上げてしまうのです。万徳円満釈迦如来と言って拝んでいるのです。そんなことをするから、お釈迦さんが分からなくなってしまうのです。いるのではないことを悟ることです。自分の命は自分のもので敬老劇、日本の仏教では分からないのです。
 「悟りつつ身はなきものと思えども、雪の降る日は寒くもあるかな」という歌があります。悟ると
は、体がないことを悟るのです。体がないということを悟っても、やはり寒いがどうしたものかと考える。ここに、禅宗の悟りの間違いがあるのです。日本の仏教の根本的な間違いがあるのです。
 釈尊はそんなことは考えなかったのです。この世に生きている自分が、自分ではないことが、分かっていたのです。明けの明星と同じものである自分が分かっていたのです。これが釈尊の悟りなのです。
 これが今の日本には全然分かっていないのです。日本には仏教はあるが、仏法はないのです。本当の成仏はないのです。自力でも他力でも、本当の阿弥陀如来は、明けの明星と同じ本質を持っている自分を言うのです。
 これが分からずにいくら念仏を申してもだめです。ただの空念仏です。
 仏教は世間並の人間を相手にして、世間並の思想を売り歩いているのです。だから、仏教の教えではなくて、仏法という悟りをとらえて頂きたいのです。
 仏の則をつかまえるのです。仏の命をつかまえることが、成仏することなのです。
 成仏するとはじめて、イエスの復活がなければならないことが分かるのです。成仏しない人には、イエスの復活が分からないのです。
 人間の造った教えでは、命を救うことはできません。
 人の命を救うものは、人の命を造ったものだけです。
 人を造り、地球を造った全知全能者しかできないのです。これは宗教ではないのです。今、鼻から息を出し入れしているのは、神という力です。神という
 エネルギーです。地球が自転公転しているエネルギーと、人の心臓が動いているエネルギーとは、同じものです。このエネルギーのもとをつかまえるのです。そのためには、まず観世音を理解する必要があるのです。




[PR]動画