43まず般若心経を学び、それから聖書を学ぶと本当の事が分かるというのは、どういう意味でしょうか。

こうして私達が、魂について、命について話しあうことは、大変尊いことであると思います。
 私達がこの世へ出てきたのは、それだけの理由がなければなりませんし、又、人間完成をしなければならない責任があると思います。七十年、八十年生きて、ただ死んでいけばいいというものではありません。
 私達は、現世に、人間という特権をもって生きています。例えば、食事をするにしても、犬や猫のような食べ方はしません。又着る物にしても、住む家にしても、人間らしい、誠に尊い、万物の霊長にふさわしい貴重な生涯を生きているのですが、これにはそれなりの責任が当然ついて回るのです。
 基本的人権が国連憲章でいわれており、日本の憲法でもうたわれていますが、人権がある以上、当然責任がなければならない。責任を考えないで人権だけを主張するのは、大変間違った思想です。
 何のために生きているかということが分からないで、ただ基本的人権だけを強調するということは、借金を返す見込がなくて、でたらめにお金を借りると同じことなのです。手形を乱発したと同じ状態です。私達は、生きている以上、それに対する責任と、覚悟を、当然持っていなければならないのです。
 人間はやがてこの世から消えてしまいます。しかし、人生には続篇があるのです。今生きているのは前篇です。この両方を合わせて、人生というのです。
 現世は、力がない人があるように、かいかぶられている場合もありますし、正直一筋の人が働き通しても、一生生活苦にあえいでいる人もいます。現世における人間生活は、徹底的に矛盾しており、不公平です。こういう不完全な人生が、これでおしまいだということは絶対にあるはずがありません。この不公平で不完全な人生の結末が、どこかで精算されなければならないのです。
 ところが、現世の文明は、人生とは何かということを、ほとんど考えていません。生活のことだけを考えているのです。このような文明は、人間の本質を無視した、盲めっぽうなものであると言わざるをえません。
 文明は、ヨーロッパ人の概念によって造られたものでありまして、例えば、現在の学校教育は、学問という概念を教えています。概念を本当のものとして教えているのです。これは、肉体を持っている現世にだけあてはまるものです。現世を去ってしまえば、全く役に立たないのです。
 文明は、人間の魂の本質、生命の本質を、まるで考えようとしないのです。これは文明の名に恥ずべきものです。
 文というのは天地万物のあり方を意味しています。あや模様です。あや模様というのは、森羅万象のあり方、姿、たたずまい、いとなみです。これが文(あや)でありますが、これを明らかにすることが、文明であるとすれば、人間の命の本質が究明されなければならないのです。ところが、現在の政治や学問は、それを全然考えていないのです。
 私達は、人間の本質を究明し、生きているうちに、徹底的に脱皮しなければならない。そして、肉体で生きている命ではなく、本当の命、永遠の命をつかまえなければならないのです。
 般若心経で空を学び、新約聖書で永遠の命を学ぶことができるのです。釈尊の悟りと、イエスの命、この二つを学ぶことによって、永遠の生命の実体と、天地万物の真相をわきまえることができるのです。
 私は、宗教宣伝をしているのではありません。人間は、死ぬために生きていてはいけないということを警告したいのです。
 現在、人間は生きています。しかし命を知らない。これは警告される値打ちがあるのです。
 生きていながら、命を知らない。これは全くうかつなことです。私達は生きている以上、命を知らなければならない責任があります。これは人生のノルマです。トルストイが死ぬ直前に、人生で一番しなければならないことを、とうとうすることができなかったといったそうですが、人間が現世でしなければならない絶対的な責任があるのです。
 人間とは何かということを究明すること、命とは何であるかということを究明することは、人間として現世に生かされているものの根本的な責任です。この責任を果たさなければ、人生のノルマを果たさなかったことになるのです。そのままで死んだら大変なことになるのです。
 私は、地獄極楽という因縁話をしているのではありません。生きていながら命を知らないということは、明らかに怠慢であるということをお話ししているのです。
 皆様方は、心臓が動いていることをご存じです。しかし、心臓が動いていることの意味が分からないのです。目が見えるとはどういうことなのかというその意味が分からないのです。これが命を知っていないということなのです。
 イエスは、山上の垂訓で、あなたがたの目の働きが正しければ、全身が明るいだろうといっています。
 実は、皆様方の目は、物を見ていないのです。物を見ないで、物の実質を見ているのです。例えば、寒い時にストーブをみますと、暖かそうだという感じを持たれます。ストーブを見ないで、ストーブの実質を見ているのです。ごちそうを見れば、おいしそうだという実質を見ているのです。料理の形ではなくて、味を見ているのです。
 味とは、形でなくて、般若心経的に言えば、空なるものです。皆様は、空を見ているのです。ところが、意識が肉性になっているのです。意識が間違っています。これが五蘊です。
 人間の目は実質を見ているが、意識は嘘を意識している。これが人間の迷いというものです。これを聖書では、肉の思いといっています。
 肉の思いは死です。現象を実体だと考えている。そういう考えは死であるといっているのです。今の人間は、すべて肉の思いで人生を生きていますから、全部死んでいると、新約聖書は断言しているのです。
 般若心経と聖書は、すべて人間の行きつく所を道破した大哲理、又は大真理でありまして、このことを詳しくお話しするには、二時間や三時間ではできません。
 簡単にこの二つの関係を申しますと、イエスが生れる前に釈尊が生れたのです。釈尊は、イエスより五百年以上も前に生れているのです。ですから、時代の流れから見まして、釈尊の思想をよくわきまえないと、イエスの思想が分からないようにできているのです。
 イエスの存在の目的、価値、人生のあり方には驚くべき深いものがありまして、キリスト教で考えているようなものとは全く違います。
 イエスは、宗教が大嫌いな人でした。その結果、宗教家に殺されたのです。ところが、今のキリスト教は、イエスを、キリスト教のご開祖として拝んでいるのです。これは全くおかしな話です。宗教が嫌いな人、宗教家に殺された人を、宗教家が拝んでいるのは、おかしい話です。
 人間とは何であるかを煎じつめますと、結局、般若心経と聖書に集約されるのです。
 まず般若心経において、本当に人間が空であるということを知ることです。五蘊皆空とはどういうものであるかということが分からなければ、イエスの思想は分からないのです。
 人間自身が空であることを承知した上で、十字架を学ばなければ、本当の罪の贖いは分からないのです。ですから、般若心経は人生の真理の前篇であり、聖書は人生の真理の後篇であると考えられるのです。そこに、宗教ではない永遠の生命があるのです。




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