42聖書にも空観はあるのでしょうか。

聖書にも空観がありますが、仏教で考えている空観とは少し違います。旧約聖書伝道の書に、「空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空で
 あって風を捕えるようである」と言っています(1・1、14)。これは、聖書独特の言い方であって、こういう空観は、般若心経の空観とは少し違うのです。
 風は、地球の命を象徴しています。風が地球の表面をぐるぐる回っています。地球にある万物は生きています。人間の心臓が動いていることは、風と大関係にあります。風はエネルギーです。エネルギーは人間生命の原理なのです。
 風は、人間の両手でいくらつかまえようとしても、つかまえることはできません。そのような空しいことを人間はしているのです。風を捕らえることができれば、命を捉えることができるのです。般若心経の空観は、人間の常識が根本的に空なるものである、空しいものであると指摘しているのです。人間の考え方の間違いを指摘しているのです。
 聖書の方は、人間の生活の仕方の間違いを主張している。似ていますが、違うのです。
 人間は、自然現象の中に生きています。自然現象に中に生きていると言うことが、風の中に生きていることなのです。
 自然現象は、宇宙の命、永遠の命がそのまま現れているのでありまして、その真ん中で生きていながら命が分からないと言うのは、考え方が根本から間違っている証拠なのです。
 現在の日本人の考え方は、根本から間違っているのです。生き方そのものが間違っているのです。全く、風をとらえるようなことをしているのでありまして、自然現象の真ん中で生きていながら、命が全然分かっていないのです。
 生きていることは、命を経験していることなのです。命を経験していながら、命が全然分からないということは、自分の業によって盲になっているからです。
 例えば、日の光を見ますと、ものすごいエネルギーを感じます。ライジングサンとか、サンシャインとかいう言葉を使いますと、宇宙の素晴らしい生命を感じるのです。生命力をを見ていますけれど、その本体が分からないのです。これは人間の魂が盲になっている証拠なのです。これをまじめに考えるためには、まず現在の日本人の考え方が間違っていることに気付くことから出発するのが、正当なあり方なのです。




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