41観自在と観世音とはどう違いますか。
 観自在というのは、三蔵法師玄笑(げんじょう)訳です。鳩摩羅什(くまらじゅう)訳ですと、観世音になります。
 これは同じことであって、観自在というのは自在を見るのです。観世音の方は世音を見るのです。音は見えないものです。これを見るのです。
 白隠禅師が言っていますように、愛憎煩悩を去ってしまえば、すべて皆、観世音菩薩になれると言っているのです。世音とは何かと言いますと、この世のことです。
 人間は現世に生きている以上、それぞれ自分の考えを持っています。政治をこう思う、経済をこう思うと、それぞれの意見を持っている。つまり世音を見ているのです。世の中の実相を見ることが、本当の世音を見ることなのです。
 人間が生きているのは、世音の中で生きているのです。商売をすることも、仕事をすることも、世音のまん中で生きています。それぞれに世音を見ているし、又感じているのです。
 ところが、般若心経になりますと、命のために世音を見ることになるのです。
 人間がこの世に生きているのは、大きい意味があるに決まっているのです。何となく生きているのではないのです。この世に生まれてきたのですから、目的があるに決まっているのです。ところが、現在の日本人はその目的を考えないで、生活のために生きている。こういう人がほとんど全部と言ってもいいのです。
 人間として生まれてきた以上、自分の人生について責任を持たねばならないのです。
 私達はこの世へ生れてきたのですが、この世に生れてきたことが、業(ごう)なのです。サンスクリットでカルマと言いますが、これがうるさいのです。
 この業が世音になって見えるのです、親から受け継いだ業、社会の業、学校の業、生きているといろんな業がくっついてくるのです。この業を見極めて、その実体を見なければならない。業を果たしてしまわなければ死ねないのです。
 死ぬのは仕方がない。どうせ人間は死ぬのだからと簡単に言いますけれど、死ということが分からないからそんな事を言っておれるのです。人間がこの世に生れてきたのは、業を果たすためなのです。業を果たしますと、観世音になるのです。
 逆に、観世音になりますと、業の正体が分かるのです。死の正体がはっきり分かるのです。そうすると死ななくなるのです。
 死ななくなるまで、世音を見破ってしまう。世音を看破してしまう。これが、本当の観音さんなのです。
 世音を見破ってしまいますと、愛憎煩悩は消えてしまいます。煩悩の向うへ出てしまうからです。
 般若波羅蜜多になるのです。波羅蜜多になってしまうと、死ななくなるのです。死ぬのはしようがないといっても、人間は死ぬのが厭でしようがないのです。厭なら厭とはっきり考えるのです。そうすると、死ななくてもよい方法が見つかる可能性が出てくるのです。
 死にたい人間は、一人もいないはずです。どんなに年が寄っても、若くても、死にたくないに決まっている。
 死にたくないのに死ななければならないというのは、殺されるということです。無理に死なされるのですから、殺されるのです。
 人間は皆殺されるのです。何に殺されるかと言いますと、人間の業に殺されるのです。
 死ぬというのは、人間の業であって、これは突破することができるのです。
 現に、観世音がそれをしたのです。そのやり方が般若心経に出ているのです。
 観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、一切苦厄と言っている。照見五蘊皆空度一切苦厄と言うのは、一切の苦厄を乗り越えてしまうこと、つまり死を乗り越えてしまうのです。これは観世音菩薩の修行であって、菩薩とは悟りを開いた人の抽象人格なのです。
 観世音菩薩には誰でも成れるのです。般若心経を実行すれば、死なない人格になることができるのです。
 自分の今までの考えに束縛されていると、難しく思えます。人間は今までの経験に束縛されてしまう弱点みたいなものがあります。
 ところが、般若波羅密多になりますと、現在まで生きていた自分を捨てて、向こう岸へ渡ってしまえるのです。
 向こう岸へ渡ってしまうと言うことは、別の人間になってしまうことなのです。今まで生きていた人間が、空を悟ることになりますと、そうなるのです。
 空と言うのは、何もないからっぽとは違うのです。空の実体とは、宇宙生命の一大事実なのです。言葉をかえて言いますと、これが誠の神なのです。空を見ることは、神を見ることを意味するのです。
 観世音とは、神を見ると同じ意味になるのです。世音とは、人間の業であって、業をはっきり見極めますと、自分ではない自分の姿が見えてくるのです。
 観自在とはどういうことかと言いますと、自在とは自由自在と言うことですが、何物にもとらわれないことが、自由自在なのです。
 地球に生まれてきた人間は、自由自在と言うわけにはいかないのです。地球以外に住む所がないからです。
 男として生まれてきた人は、男でなければならないのです。出生年月日を変更することはできないのです。
 そのように、現世に生まれてきたということは、自在ではないことを意味するのです。地球ができた以上、人間は地球でなければ生きられないようにできているのです。
 そうしますと、本当の自由自在があるとすれば、それは、地球ができる前のことなのです。これが本当の自在なのです。時間もないし、空間もないのです。従って、五十歳とか、八十歳とかいう年齢もないのです。男も、女もないのです。これが自在なのです。
 観自在というのは、地球ができる前に返るという、素晴らしい大きい意味があるのです。
 自というのは、初めからという字です。自在というのは、初めからあったものという意味です。
 初めからあったものというのは、地球ができる前を言うのです。地球は四十五億年程前にできたと学者は言っていますが、それ以前には地球はなかったのです。従って、人間もなかったのです。
 その時の、本当の人の姿、私達がこの世に生れる前の姿が、自在なのです。ところが、この世に生れて、この世の業のとりこになってしまう。男とか、女とか、儲けたとか、損をしたと言っているのは、自在ではないのです。
 そんなことに関係がない生れる前の自分の姿です。これが自在です。これを見ればいいのです。
 観自在というのは、生れる前の自分を見るという雄大な思想です。イエスはこれを見せてくれたのです。生れる前の自分がいると言ったのものですから、当時のユダヤ人から気違いだと言われたのです。
 生れる前の自分がいると言ったって、今おまえがいるのではないか。イエスが、私はアブラハムよりも先にいると言ったものですから、アブラハムは千年以上も前に死んでいるのではないか。それよりも先にいると言うのは、地球ができる前ということになるのです。イエス・キリストは、地球ができる前からいるといったのです。観自在を文字通り実行してみせたのです。
 今までの勉強とか、人生にこだわらないで、幼稚園時代の気持ちにかえって、淡々として物を考えるという気楽な気持ちになれば、観自在ということは十分にできるのです。
 年齢はないのです。四十歳、五十歳という年齢は、常識ではありますが、般若波羅蜜多で見れば、そんな人間はいないのです。
 釈尊の本当の悟りで言いますと、年齢という考え方は全て空です。禅の歌に、「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば生れぬ先の父ぞ恋しき」と言うのがあります。生れる前の自分の魂の状態です。それを見極めることが、本当の悟りであると言っています。歌はありますが、こういう立派な悟りは、今の日本にはないのです。
 観世音とか、観自在という人格は、なければならない人格なのです。観世音にならなければならないのです。そうすれば、自分が死ぬという因縁を乗り越えてしまうことができるのです。
 業を果たすことはできるのです。
 業を果たさなければ、人間は死にます。死んだらしまいだと思うことは、大変な間違いです。人間は本来、観世音となるために生れてきたのです。ところが、観世音になっていない。商売人になったり、会社員になったり、弁護士になったり、先生になったり、色々なことをしています。そんなことをするために生れてきたのではないのです。
 商売をしたり、会社勤めをしてもいいでしょう。しかし、本職は業を果たすことです。生活をするために、ちょっと働いてみようかという位でいいのです。働くという事を通して、観世音への道を歩むのでなかったら、何もならないのです。
 お金を儲けて、生活をしながら、悟りを開くのです。これは難しいことではありません。
 働くということは、立派な道場なのです。寺で座禅を組むよりも、働いている方がよほど悟りを得やすいのです。暑い時に、汗水流して働いていれば、功徳があるのです。
 人間は現世に生きるためではなくて、悟るために生れてきたのです。観世音になるため、観自在になるために、生れてきたのです。
 その意味では、イエスという人物の生きていたことが、非常に参考になるのです。釈尊は悟ったが、そのまま死んでしまった。イエスは死ななかったのです。
 日曜日はイエスが復活した記念日なのです。イエスは、歴史的事実において、死を乗り越えたのです。本当の観世音をしたのです。イエス観世音と言えるのです。千手観音とか、十一面観音とか、色々な観世音がありますから、イエス観世音があってもおかしくないのです。
 イエスが死を破ったことは、世界歴史が証明している事実でありまして、宗教ではありません。キリスト教では、復活をはっきり説明しないのです。科学的にも説明できることなのです。
 現在の科学は、非常にレベルが低いので、復活を完全に説明できませんが、もっと高度な科学によれば、説明できるのです。
 歴史的事実を勉強すれば、私達自身も歴史的に死を破っていけることが、はっきり言えるのです。
 現在、人間は、相当自由な生活をしています。好きな着物を着て、好きなものを食べて、好きな所へ行って遊べます。衣食について、相当自由な意志を用いることができるのです。これは賛沢なことです。犬や猫は、こんなことはできません。
 人間は、神や仏と同じ生活をしているのですから、悟りを開かなければならない責任があるのです。
 世間の人がしないから、自分もしなくてもよいと考えますと、大変なことになるのです。レストランへ入って食事をして、代金を払わずに出てしまうと同じことになるのです。
 この世に生れてきたことは、それだけの責任を負っているのです。業を果たさずに死んでしまいますと、ただではすまないのです。
 自分の経験を一応棚にあげて、白紙に戻って、自隠禅師が言うように、愛憎煩悩を去って、観世音菩薩になるような気持ちをもったらどうでしょうか。
 そのためには、聖書の神の助けがどうしてもいるのです。仏教だけでは難しいのです。白隠禅師が言っていた観世音菩薩と、現在私達が考える観世音菩薩とは違うのです。白隠禅師は死を破ると言っていませんが、聖書は死を破ることができる観世音のことを言っているのです。ここが違うのです。白隠禅師よりもスケールが大きいのです。



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