39色蘊とはどういうことですか。
 般若心経で言う色蘊というのは、目に見えるものが存在しているという考え方なのです。儒教でいう仁義という考え方、道徳とか親子の関係とかいう問題が、全部五経に基づいて成立しているのです。
 目に見えるものがあると考えるから、道徳とか法律が考えられるのです。一体目に見えるものがあるかないかということが、大きな問題なのです。般若心経はないと言っているのです。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色ということは、目に見える通りのものがあるのではない。目に見えないものが、見えるようになっているというのです。
 空即是色というのは、空が色になっていると言っているのです。これは、目に見えないものが、見えるようになっているという思想なのです。しかし、目に見えるように物が存在しているというのは、造られたものなのです。最初はなかったのです。最初はなかったものが、目に見えるようになったというのです。
 造られたものはやがてなくなります。形あるものは必ず滅するのです。今見ている地球の万物は、全部消えてなくなってしまうのです。しかし、人間の魂はなくならないのです。だから困るのです。万物がなくなった時に、人間の魂もなくなればよいのですが、そうはならないのです。
 万物がなくなっても魂はなくならないという理由があるのです。どうしてかと簡単に言いますと、今、人は物を見ています。目の働きはどこからきているかと言いますと、人格からきているのです。人格の働きが、肉体機能として働く部分と、心理機能として働く部分と両方あるのです。
 肉体機能として働く部分、目で見て美しいとか、物を食べておいしいとかいうのは、人格が肉体的に働いているのです。これが五官です。もう一つは、理性や良心となって、精神的に働いているものです。精神的なものと肉体的なものと両方に人格が働いているのです。
 ところが、一体人格とは何であるかと言うことです。善悪利害得失を考える人格です。自尊心とか、プライドとか、プライバシーとか言います。道徳とか、自尊心とかを考えるのはどこからきているのかと言うことです。
 これは、宇宙の命の本質である絶対人格と大きな関係があるのです。例えば、花が咲いているのは、宇宙人格の現われなのです。宇宙人格の現われが、地球のエネルギーになり、それが花になって現われている。花の美しさは、宇宙人格の美しさなのです。マグロの味とか、サバの味は、天然自然がつけたのです。天然自然とは一体何かということです。∨これが神の本物なのです。宇宙の命の本物なのです。
 宇宙の命には、神という人格があるのです。太陽の輝き、空の青さ、海の青さ、花の美しさは、皆人格の現われなのです。空が青いということは、神の人格が空に現われているのです。稲妻のひらめきは、そのまま神の人格の表現形式なのです。そのように、人間は生れながらにして、天然自然という形で、宇宙人格を知っているのです。
 っまり、人の人格というのは、神の人格がそのまま植えられているのです。だから人格の源を探求しないと、命が分からないのです。自分の人格がどこからきているかを考えなければならないのです。
 人格は自分で造ったものではないのです。生れた時におのずから与えられたのです。「おのずから」とは一体何でしょうか。これが神なのです。
 人の人格は神と同じものなのです。だからこの世を去っても、肉体がなくなっても、人格はなくならないのです。そこで地獄があるのです。
 もう一度言いますと、人間は、太陽の光を認識することができます。空の色を知ることができる。花の美しさを知ることができる。雪景色を見ることができる。こういう、大自然の景色を見ることができるということは、大自然を造ったものと同じ人格を持っているからなのです。
 人の人格は、宇宙構造の根本原理である神の人格がそのまま与えられているのです。だから、心臓が止ってこの世を去っても、人格は消えるわけにはいかないのです。消えないのが人格なのです。
 人格の本性は神です。全知全能の神なのです。神の人格が、人の人格として植えられているのです。だから死んでしまえばそれまでと言うわけにはならないのです。
 宗教はだめです。人格の源、命の中心をしっかりつかまえなかったらだめです。信じたら良いとか悪いとかの問題とは違います。信じても、信じなくても、人格は宇宙人格からきています。だから、この世を去っても、人格は消えません。そこに霊魂の重大性があるのです。霊魂不滅と苦から言いますが、これを具体的に、はっきり説明できる人がいないのです。
 自分の人格がどこからきたか、この世を去ると人格はどこへ行くのか、これがよく分かれば、生きている命と、宇宙の関係が分かるのです。
 人間は、現世で七十年、八十年生きるために生れてきたのではありません。永遠の生命を見つけるために生れてきたのです。人間完成のためなのです。人格の本質が、人格通りに完成されることを、霊魂の救いと言うのです。こういう考え方が、日本にはないのです。
 般若心経と聖書を二つ並べて一つにする。つまり東洋の原理と西洋の原理を一つにしてはっきり説明することが、できないのです。弘法大師も、日蓮も、親鸞も、道元もできなかったのです。
 人格とはどういうものかが、分かっていないからです。目に見えるような物質は、命の世界から消えてしまいます。逆に言いますと、肉体が消えることは、目に見える現象世界がなくなるだけのことなのです。
 色蘊は、やがてなくなります。人間の感覚に頼っているからいけないのです。
 人間の感覚は数十年間のものです。しかし、宇宙は永遠です。人の人格は、永遠の宇宙に参画するために、宇宙の大構造に人格が役立たなければならないのです。
 この世で仕事をする位どうでもよいのです。少し儲ければそれでいいのです。私達が本当にしなければならないことは、この世を去ってからの仕事です。
 この世の命は、やがて消えるに決まっています。ところが、霊魂の本質価値は永遠のものであって、神と同じ仕事をすることができるのです。死んでから天国へ行くというバカなことを考えないで、もっとまじめに考えなければならないのです。
 人間が目で物を見ているということは、大変なことをしているのです。耳で物を聞いているということは、永遠の命にかかわりがある重大な経験なのです。五官の働きの本当の重大さを考えて、人格完成をしなければならないのです。
 神の人格と人の人格は同じ人格ですから、神の完全さをそのまま人の人格において受け止めなければいけないのです。
 これをイエスはしてみせたのです。これが彼の復活なのです。復活の命を経験するのです。復活の命は今の人間が生きている命とは違います。死なない命なのです。これを受け取ればいいのです。



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