37観自在の意味を教えて下さい。

日本では、本当の般若心経を説いている寺はありません。本当の聖書を説いている教会がないのです。
 今の日本人は、命に対して、ほとんど関心を持っていません。生活のことばかりを考えているのです。いわゆるエコノミック・アニマルになっているのです。生活のことは考えるが、命のことはほとんど考えない。これが現在の日本人なのです。
 宗教は、自分が幸いになりたいとか、死んでから天国へ行きたいとかいう、人間の宗教欲によって神を信じたり、仏を信じたりしているのですが、こういうものは、本来、人間の無明煩悩なのです。だから、宗教は間違っているのです。ただ、根っから悪いというものではありません。宗教は真理に至るための入口と考えてもいいのです。
 ところが、宗教を信じている人は、入口に入っただけで奥座敷へ入ったような顔をしているのです。それが間違っているのです。入口は玄関先であって、奥座敷ではありません。
 宗教ではない聖書が、聖書の奥座敷のことなのです。宗教ではない般若心経とは、般若心経の奥座敷のことなのです。宗教は悪いものではないにしても、現在の宗教を鵜呑みにしてしまいますと、皆様の魂は、裏切られてしまうのです。
 文明は魂を裏切っているのです。宗教も文明の一つです。これは人間を裏切るのです。このことをご注意頂きたいのです。
 観自在ということですが、これは観世音といってもいいのです。三蔵法師の玄奘が訳したのが観自在であり、鳩摩羅什が訳したものが観世音です。観自在といっても、観世音といっても同じことです。自在をみるといっても世音を見るといっても、同じ意味になるのです。
 観自在というのは、人間が見ていないもの、現世の奥に隠れたもの、人間の常識に隠れた本当のことを見るのです。
 例えば、宗教が入口だといいましたが、魂の奥座敷をご存じないのです。皆様の魂の入口と、奥座敷とがあるのです。魂の奥座敷をご覧になれば、そこに神の子であるイエス・キリストの姿が、すっと見えてくるのです。
 釈尊は、それを見せるために、まず空じるといったのです。観自在、観世音は、現世の自分の思いを乗り越えることを意味するのです。
 皆様は生きていらっしゃいます。肉体と心理機能とが一つになって、見ておられます。耳が聞こえます。この状態を魂というのです。
 実は、目が見えること、耳が聞こえることが、神ということなのです。皆様は、神と共に生きていらっしゃるのです。
 イエスは、私は父の内にいるといっています。我父にあり、父我にありといっています。これがイエスの信仰なのです。皆様方の命は父の内にあるのです。魂は神の内にあるのです。現実の世界は、常識で見ますとただの現実ですが、例えば花が咲いているとは何なのか、美しいとは何かを考えていきますと、花が咲いていることがそのまま神の国であることが分かるのです。
 命が現われているのです。皆様の心臓が動いているのと、花が咲いているのとは、同じ命なのです。こういうふうに見ていきますと、自分の命がないことが分かるのです。
 皆様は、せっかく命を持っていらっしゃるのですから、目が黒いうちに、神がイエス・キリストによって現わした死なない命を、よくご承知頂きたいのです。
 ついでに申しておきますが、弘法大師はいろは四十八文字の歌をお書きになったお方ですが、このお方は中国へ渡っていたキリスト教の研究を、非常に熱心になさったのです。いわゆる景教の研究をされたのです。
 いろは四十八文字の七字めごとの最後だけを読んでいきますと、とがなくて死すとなりますが、これはイエス・キリストのことなのです。弘法大師のご利益の中には、イエスの教えが無言のうちに含められているようです。
 これは余談になりましたが、どうぞ今までの宗教観念ではなく、心を開いて、自分自身の魂をよく見るつもりで、般若心経と聖書を勉強して頂きたいのです。



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