2般若心経と聖書が宗教ではないとはどういう意味でしょうか

私は仏教を軽視する気持は毛頭ありません。軽視するどころか、東洋人に与えられた神の摂理としての、通過すべき門であると考えています。
 例えば、寺には山門があります。宗派によって山門のあり方は違いますが、正式にはお寺の本堂に参拝をするためには、山門を通過するのが儀式なのです。
 昔、勅使が一流の寺へ下向しますと、山門から入ったものです。そのように、正当に通過すべき門があるのです。これが仏典なのです。
 神の奥義、神の約束、神の救いは、普通の人間が直接にふれようとしても、分からないのです。分からないままで無理にふれますと、分からないのを無理にのみこんでしまうことになります。そこで、現代のキリスト教という妙な宗教ができあがってしまったのです。
 イエスという人物は、ただの人ではありません。ただの人ではありませんが、キリスト教では神の子だといっています。もちろん神の子です。しかし神の子とはどういうことなのかということです。処女降誕とはどういう意味なのかということです。
 処女降誕ということになりますと、現代のキリスト教で説明ができる人はほとんどいません。一人もいないかもしれません。このように、処女降誕でさえも分からないのです。ましてや再臨のことはどうかということです。
 第一降臨のイエスが分からないのですから、第二降臨のイエス、つまり再臨のキリストとなると全然分からないのです。このように、宗教的に聖書を解釈するということが、聖書を間違えてしまった原因であります。
 仏教が仏典を仏教的に解釈したために、間違ってしまったのです。ウパニシャッドとか、ヴェーダという経典類まで、皆仏典の中におしこめられてしまったのです。ウパニシャッドは、バラモン教の哲学思想を表わす聖典でありまして、仏典の中へおしこんでいるのです。これは無茶なことなのです。
 仏典の編集では、第一結集、第二結集があります。この時に色々なものが入り込んで、純粋な釈尊の思想が、非常に希薄になっているのです。
 般若心経は、かろうじて釈尊の面目をたもっていると思われるものです。曇鸞(どんらん)とか善導(ぜんどう)とかいう中国のお大師さんが、他力を説きました。日本でも他力が尊重されています。
 他力そのものが悪いというのではありませんが、他力と自力との関係がどのように連結されるべきかといいますと、どうもはっきりしないのです。つまり現代の日本の大乗仏教は、曖昧模糊として霧の中にかすんでいるのです。正体が不明なのです。
 聖書は、仏教ほどではないにしても、色々な教団によって随分曲げられています。だから、今のキリスト教も、仏教も、宗教としては立派なものですが、真理として、真実とてその価値を問うことになりますと、ほとんど無価値でしょう。
 キリスト教は、例えば、イエス・キリストの復活ということでも、その物理的な説明は全くできません。ただ復活を信じているだけなのです。これは信じないよりはましかもしれませんが、イエスが復活したことは、ありうべからざることが発生したということです。
 だから、イエスの復活に立ち会った弟子達が、幽霊が現われたと思って顔色を変えてうろたえたと聖書に書いてあります。
 ところが、今の牧師さん達はイエスの復活に対して顔色を変えてうろたえないのです。ただ過去的事実として冷淡にあつかっているのです。これがいけないのです。復活にうろたえて、泡を食うぐらいでなければいけないのです。顔色が変わるぐらいでなければいけないのです。神学者達は泰然自若としているのです。つまり復活が分かっていない証拠なのです。 
 そういうわけでありまして、宗教の棚卸しを始めると、きりがないのです。仏教もキリスト教も、はっきり言えますことは、間違っているということです。宗教ではない般若心経と、宗教ではない聖書、宗教の神でない神と、キリスト教のキリストではないキリストをつかまえる必要があると思います。
 どの教団に属しているかは、問題ではないのです。皆様方の心にある宗教観念を追い出して、聖霊による聖書、釈尊の正当な悟りによる仏典を、はっきりつかまえる必要があります。宗教ではなく、生きているという事実に基づいて、命を見る、地球存在を見ることをしたいと思っているのです。



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