キリスト教には、各教派、教団がありまして、聖書の解釈が少しずつ、皆違っているのです。聖書は一つです。神は一人です。ところが、人間の解釈が加わりますと、色々な考え方ができてくるのです。 聖書は、神とは何かという言い方をしていません。神とは霊であるという言い方はしています。神は霊であるから、拝するものも霊とまことをもって拝しなさいという言い方をしています。ところが、神は霊であるとはどういうことかについての考え方が、ばらばらであって、まとまっていないのです。 結局、神とは何か、イエスはどういう人だったかということについての正しい考え方ができるかどうかということで、宗教であるかないかがきまるのです。 聖書には、すべてのものの父なる神は一つであると書いています。神が二つも三つもあるわけではありません。 日本には八百万の神という考え方がありますが、これは神ではないのです。これは世の中で人間が勝手に造りあげた神であって、本当の神ではありません。 聖書の神は人間がつくった神ではありません。地球を造った神です。神が人間を造ったのであって、人間が神を造ったのではありません。 人間が神を造ったというのは、顛倒夢想でありまして、ひっくりかえっているのです。 キリスト教の教派が、それぞれ自分達の考え方を立てようとすることは、各々自分自身に気にいった神を造ろうとすることになるのです。 例えば、純福音系のきよめ派というグループがありますが、これはきよめ派というグループでの神を造っていることになるのです。 そのように、カトリックにはカトリックの教条で造り上げた神があります。ルーテルはルーテルの考え方で神を見ています。 ところが、ルーテルがどう考えようと、カトリックがどう考えようと、神は神でありますし、イエスはイエスです。本当のイエスはどういう方であるかを、イエスの名によって勉強する必要があるのです。例えば、新約聖書ヨハネによる福音書1章12節には、彼を受け入れた者、即ち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたとあります。 彼を受け入れた者、即ちその名を信じた者とはどういうことなのか。彼の名を信じるとは、イエスの名前を信じることであって、これがキリスト教では分かっていないのです。イエスという名前はどういうことなのかが、キリスをは分かっていないのです。 神の名前、エホバの御名(みな)という言葉が旧約聖書にあります。 新約聖書の主の祈りに、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますようにとありますが、御名をあがめるとはどういうことなのか。これがキリスト教では分かっていないのです。 宗教ではない本当の聖書とは、神の御名をあがめ、イエスの御名を信じることを具体的に捉えることなのです。 十字架ということについても、世間のキリスト教では、十字架によって救われるヒ言っていますが、聖書をよく見ますと、十字架によって救われるどころか、人間は死んでしまうといっているのです。 新約聖書で、私はキリストと共に十字架につけられて、死んでしまったとパウロは言っているのです。 そのように、人間は死んでしまうことによって、自分の罪が消えてしまうことになるのです。 聖書に書かれている通りの事を信じて、宗教ではない聖書ということを申し上げているのです。
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