31空じることと信じることについてお聞きしたい。
 般若心経は空じることを目的にしています。日本の仏教は空じるのではなくて、自分が救われること、幸せになること、死後の安楽を願うことが、目的になっています。
 ところが、死後の安楽という思想が、空なのです。般若心経が言う五蘊皆空の中に入るのです。人間の常識が考えている仏国浄土とか、天国とかいうものは、全部間違いなのです。
 イエスは、死んでから天国へ入るということは、一切言っていません。現世に生きているままの状態で、天にいます父の御心を行うものだけが、天国へ入ると言っているので仏典には、永遠の命ということが書いてありません。大乗仏教17600巻の経文の中に、魂という文字がないのです。仏国浄土という思想は書いています。阿弥陀如来の名号のいわれを心得て、念仏申すならと言っているのです。これは今の日本の他力本願には一切ないのです。
 経典にあること、聖書に書いていることを寺も教会も実行していないのです。もし真実を本当に知りたいと思ったら、五官を冷静に、客観的に見ればいいのです。
 人の五官の働きは、命を知っているのです。生活感覚は、食べれば味を感じます。景色が見えます。生活感覚は世界63億の人間が、全部一つの感覚を持っているのです。生活感覚は死なない命なのです。
 ところが、人間の生活意識が間違っているのです。生活意識が五蘊なのです。これをあらためればいいのです。イエスという人は生活感覚の上に生活意識をおいていた。感覚と意識が一致していたのです。これを信じるというのです。
 まず、人間の生活意識を空じること。自分の意識が間違っていたことを、はっきり確認することです。そうすると、命が見えてくるのです。
 命の実物は、私達の心臓が動いているということです。砂糖が甘いと感じることです。これをザ・リビング(the living)といいます。ザ・リビングということが神なのです。
 五官は、ザ・リビングにもとづいて働いているのです。五官の実体をつかまえるためには、どうしても日本人的な世界観、癖、キリストをいやがる癖、聖書を敬遠したがる気持ちを解脱しなければならない。

 徳川三百年の間に、がっちり植え込まれた島国根性を、解脱するのです。そうすると分かるのです。つまり、織田信長以前の日本人に帰るのです。そうすると一期一会のあり方が分かってくるのです。
 聖書は死んでからとは言っていません。天国へ入るのは、私達の目が黒いうちに入るのです。とにかく、現代の日本人は非常にゆがめられています。徳川幕府三百年でゆがめられ、明治以来の数十年で、がっちり西洋主義が植え込まれたのです。
 西洋主義というのは色々ありますが、煎じ詰めればユダヤ主義なのです。私はユダヤ人の悪口を言っているのではありません。ユダヤ人は、非常にすぐれた民族なのです。あらゆる学者、政治家、経済家、芸術家の中に、ユダヤ系の人が多いのです。それほどすぐれた民族なのです。
 これほどすぐれた民族が、まちがった考えを持っていることが、全世界の不幸の原因になっているのです。このすぐれた民族が、すぐれた頭にかえってもらいたいのです。本来の頭に帰ってもらって、心臓が動いていることが神だという、この簡単なことを知ってもらいたいのです。
 太陽が輝いていることが神なのです。この明々白々な事実が、人間の生活感覚であって、生活感覚の事実と、生活意識との事実が、神的に統一されなければならないのです。
 人間の思考方式の原点が、命に帰ることなのです。これが観自在です。観自在というのは命の原点に帰ることであって、これが観自在菩薩行深般若波羅蜜多ということになるのです。
 般若心経の原理がそのまま聖書の原理になっているのです。般若心経の徹底した空、自分自身を空じてしまうという気持ちがなければ、信じることはとてもできないのです。
 人間の日常生活の実感の中に、どのように神が存在しているか。私達が飲んだり、食べたりしていることの中に、神がどのように存在しているかを勉強する必要があるのです。
 とにかく、この世に、人間として生まれてきたことが、業なのです。肉体的な感覚で生きていることが業なのです。この業を果たさなければ死ねないのです。業を果たさずに死んだらひどいことになります。高い税金をとられます。それは、五億円や十億円と違います。
 人間は人間の実質を知らないままの状態で生きている。これが間違っているのです。人間の実体は霊魂なのです。理性と良心が肉体的に生きていることを、魂というのです。魂の実体を捉えないままの状態で生きていますと、それに対する責任をどうしても追求されることになります。これが霊魂の審判ということです。
 まず最初に空じること、それから信じることができるのです。



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