29色々とお開きして、頭で分ったような気がしますが、実行がなかなか難しいのです

実行するためには、地道な努力がいります。霊魂の行は、肉体の行と違いまして、水をかぶるような行とは違うのです。いわゆる斉戒沐浴をしてもだめなのです。肉体は清まりますが、魂は清まりません。魂を清めるためには、方法は一つしかないのです。心が柔和になるのです。謙遜になるのです。
 柔和謙遜というのは、すばらしい美人のかっこうのような心に、自分がなるのです。美人にはなれませんが、美人になったような気持ちを、魂に持てばいいのです。
 般若心経は、般若ハラミタとは何か、どうすれば彼岸に行けるかを、絶対に教えてくれないのです。これが、釈尊のいい所ですが、又悪い所です。
 釈尊は、自分で分ったのです。釈尊は、明けの明星を見たのです。明けの明星とは、歴史の行く末のことです。人間歴史の行く末です。
 現存する歴史が、一度だめになるのです。そして新しい歴史が、全世界に登場するのです。地球に、新しい歴史が、出現します。これが、神の国です。
 神の国を求めるとは、こういうことなのです。歴史の完成を目ざして、勉強するのです。これは、今の日本人が、誰もしていないことです。
 現在の歴史は、やがて、潰滅状態になります。欲と悪に満ちた人間が集まっている歴史が、完成されるはずがないのです。
 釈尊が見たのは、明けの明星であって、明けの明星の次に、何が現われるかを感じたのです。明けの明星の次に現われるのは、太陽です。義の太陽です。これが、現われるのです。
 今の太陽は、義の太陽のサンプルなのです。本当の太陽は、現在の物理的な太陽の効用も果たしますが、心理的な効用も果すのです。今の太陽は、物理的にしか、人間を照らすことができない。
 物理的な面と、心理的な面と、両方を、くまなく照らす太陽を、義の太陽というのです。
 釈尊は、義の太陽が現われるに違いないことを、明星を見て、直感したらしいのです。命の本源、命の原理が、そのまま地球の歴史を指導する世界です。これを、釈尊は直感したのです。
 ところが、釈尊の悟りが、日本の仏教界には、全然分っていないのです。明星の話をする坊さんは、一人もいません。これが分らなければ、釈尊の悟りは、絶対に説明できないのです。
 なぜ、五蘊皆空なのか。今の社会が、なぜ空であるか。この原理は、来らんとする、新しい天地の輝き、物理と心理をくまなく照す、義の太陽の輝きの説明ができなかったら、分らないのです。
 人間は生きていますが、命がどうして人の肉体構造に働いているかという原理が、分っていないのです。森羅万象の中にも、命があるのです。
 これは、新約聖書で言いますと、「神はすべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいる」(エペソ人への手紙4・6)とあります。上というのは、肉体的な人間の常識では、感じられない場所のことです。
 神はすべてのものの上にあり。すべてのものを貫いて、すべてのものの内にあるといっています。これが神なのです。つまり、人の肉体を貫いて、神が入っているのです。人の舌に、神がいるのです。味覚をばかにしてはいけないのです。粟のいがを貫いて、神がいるのです。
 ボールペンで字が書けるということは、ボールペンを貫いて、神が実在しているのです。ボールペンがボールペンであることを、イズ(is)というのですが、あることが神なのです。舌が舌であることが、神なのです。
 飴をなめるのは、実は、人がなめるのではなくて、人の舌を舌として働かせている神が、人を通してなめているのです。
 神なんかあるもんかという人がいますが、神は、自分が好きだから、人になめさすのです。神は、マグロの刺身が好きだから、人に食べさせるのです。ビールが好きだから、ビールを飲ませるのです。こんな簡単なことが分らないのです。
 日本人は、神を拝んでいますが、本当の神を全然知らないのです。本当の神は、抱きあって、ダンスができるような人です。腕を組んで、一緒に歩ける人なのです。神は、一番やさしい、一番気楽な、一番もの分りのいいおやじなのです。衣冠束帯の神ではないのです。冠をかむっている神は、偽物です。丸裸の神とつきあうのです。これが霊なのです。
 生かしているものは、霊なのです。人間の肉体を肉体として生かしているのは、霊なのです。地球を地球として生かしているのは、霊なのです。栗を栗としているのが、霊なのです。
 リンゴの味とは、一体何であるか。これが神なのです。味も神、舌の感覚も神です。リンゴの味が分るというのは、霊の感覚です。これを、肉の感覚で受けとっている。だから、肉体生活を生活だと思っている人は、霊魂のことが全然分らないのです。
 肉体生活にとらわれている人は、本当の人間の情緒が分らないのです。本当の情緒とは、命の本質なのです。命の本質を味わいわける、見分ける、聞き分けることが、本当の情緒です。芭蕉は、情緒をつかまえようと考えて、一生涯を棒にふったのです。「名月やああ名月や名月や」と言いながら、名月を通して、大自然を通して、本当の情緒をつかまえようとしたのです。
 そんなに情緒の本体を求めながら、生かすものは霊であることが分らなかったのです。この霊が、神の本体なのです。エネルギーの本体なのです。精神的なエネルギー、物理的なエネルギー、地球を自転、公転させているエネルギーが、人の目や耳や舌に入っているのです。
 これが分ると、初めて、万物の霊長だと分るのです、万物はたくさんありますが、自分の中に、舌に神があることが、分らないのです。これが分りますと神の国が分るのです。神のジャンル、神の領域が分るのです、神の国に、目の黒いうちに、絶対に入る必要があるのです。ここへ入りますと、死なない命が、ありありと分るのです。
 そこで、記憶の入れ替えができるのです。肉体生活の記憶ではない、霊の生活の記憶が自分のものになりますと、肉体生活の記憶が押し出されて、消えてしまうのです。
 魂が、神に同化してしまうのです。そうすると、生活の考え方が、変ってしまうのです。人柄が、変ってしまうのです。金儲けで一所懸命になっていた人間が、ごそっと違う人間になってしまうのです。肉の思いが、どうしても捨てられないと思っていたものが、うすれていくのです。本当の事が分ると、偽物の影がずっとうすくなるのです。
 神の御霊をあがめるというのは、こういうことです。実は、人の命の本質は、神の御霊なのです。
 生きていることが、霊なのです。この世に生きているかっこうはしているけれど、実は、霊の世界に生きているのです。上手も、へたもないのです。ただ柔和謙遜になればいいのです。




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