27般若心経と聖書の勉強も必要かもしれませんが、生活も大事なことではないでしょうか。

人間は現世に生きるために生れてきたのではありませんが、肉体的に生きていなければ、魂を捉えることはできません。肉体的に生きることは、必要なのです。命を求めていれば、生活はできるにきまっているのです。どんなに厳しい生活条件であっても、非常に失業者が多い条件であっても、素直に生きようという素朴な気持ちがあれば、必ず生きていけます。
 だいたい、自然法があることが、神があることであって、宗教ではなく、公義の勉強になるのです。宗教ではない般若心経というのは、公義としての般若心経になるのです。
 公義とは、地球が、自転公転をしている原理なのです。バンアレン帯がある原理なのです。電場とか磁場というのは、地球にだけ、特別に働いています。
 地球にだけ、なぜこのような事実があるのか。火星にも、金星にもない。まして、土星や木星にも全くないことが、なぜ地球にだけあるのか。
 地球以外の惑星に、人間みたいな生き物もいるという人がいますが、これはユダヤ人の世界観でつくりあげた、おとぎ話なのです。
 電場と磁場が、決定的に存在するのは、地球だけなのです。地球には、森羅万象が満ちている。これは、地球そのものが生きていることなのです。地球が生きものなのです。人間が生きているのではなくて、地球が生きているのです。だから、人間が生きている命の本源が、地球の命なのです。
 これが分れば、生活は絶対安全です。働く誠意と、正しく生きる意志があれば、働けるにきまっているのです。そうすれば、生きていけるにきまっているのです。
 現世で生きることだけが、命ではないのです。永遠の命、死なない命が、本当の命なのです。死なない命を見つけるために、新しい世界観を、創建する必要があるのです。
 現世の命は、七十年か八十年位のものです。本当の命は、現世をこえて、永遠にあるのです。これは、主観的な自己認識をやめて、客観的な自己認識を持てば、すぐ分ることなのです。
 人の本質は、固有名詞の人間ではありません。固有名詞の人間は、市役所に届け出されている人間です。これは、世間並に通用する人間なのです。これは、死ぬにきまっている人間なのです。ところが、人の本質、例えば五官の働きの原点は、公義なのです。地球が存在する原理が、人の魂なのです。魂は、死なないものなのです。魂という本当の自分を見つけないで、市役所に届け出している自分を、自分だと考えている。これは、死ぬ自分を、自分だと思いこんでいるのです。
 だから、般若心経と聖書を勉強して、果して食べていけるのだろうか、世間に通用するのだろうかとつい疑いが生じるのです。これは、人間の迷いです。しかし、ただの迷いです。
 人の本体、実質は、ザ・リビングなのです。ザ・リビングとは、心臓が動いていることなのです。目が見えるということがらです。これを魂というのです。固有名詞とは違うのです。固有名詞として現われてはいますけれど、実は、魂と固有名詞とは、何の関係もないのです。
 自分の本当の原点を知らないで、世間並に通用する人間を、自分だけと考えている。これは、人生観の不徹底なのです。
 命の本体は、人間ではないのです。魂なのです。生きていることがらの実体は、魂なのです。これが、ザ・リビングなのです。イエスは、これを自覚したのです。だから、アイ、アム、インザ、ファーザー(I am in the father)といっているのです。
 父の内にあることが、私だといっている。つまり、自分に生きないで、神に生きることです。これは、神を信じることとは違うのです。人間が神を信じることではないのです。神の中へ入ってしまうことなのです。これが、イエスがした経験なのです。
 神の中へ入ってしまうと、気楽なものです。神が愛の実体であること、神が永遠の公義であることが、はっきり分るのです。
 自分自身に生きないで、神が生きることになるのです。これは、言葉で言えば難しいようですけれど、自分自身の主観的な意識を捨てて、客観的な事実にかわってしまうだけなのです。自分で生きている人は、必ず死にます。例え、生活が安全であっても、百才まで長生きをしても、死んでしまえば、何もならないのです。
 固有名詞で生きていて、商売をしても、学問をしても、全く何もならないのです。自分の生命の本質について、何もならないのです。ただ死ぬだけなのです。魂の自分と、人間の自分とを区分けをすることが、先決です。



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