26 業(ごう)を果たすにはどうしたらよいのでしょうか。

日本人の祖先は、現世の生活しか考えていなかったようです。魂についてまじめに考えていなかったのです。
 親鸞とか道元がいました。道元は、人間は本来仏子であるといっています。仏の子であると、はじめからきめてしまっているのです。
 確かに、人間の魂の純粋な姿は、仏子だといえるでしょう。しかし現在の人間が業を果たすためには、どうすべきかということです。これが道元の曹洞では分らない。臨済でも分らないのです。業を果すことが分らないのです。煩悩愛憎を捨てれば、観世音菩薩になれるというのですが、煩悩愛憎を捨てることができないのです。
 日本人は伝統的な考え方、世界観を解脱しなければならないのです。これを解脱しなければ、本当の命をみつけることはできません。これができるかどうかです。
 人間は現世に生きている自分を、自分だと思いこんでいるのです。固有名詞の自分を、自分だと思いこんでいるのです。
 人が現世に生れてきたのは、生かされている命の実質をみきわめるためなのです。この世で生活するためではなくて、命の実質をみきわめて、死なない人間になるために、生れてきたのです。
 ところが、日本人の世界観は、現世に生きていることだけしか考えないのです。だから、自分の生活が第一です。家庭円満、商売繁盛だけを考えているのです。日蓮の考え方は、日本人の考え方を、よく現わしているのです。
 現世主義の宗教は、本当の宗教と言える価値はないのです。本当の宗教は、永遠と自分をつなぐものなのです。宗教の英語の語源は、つなぎとめるという意味があるのです。神と人の魂が、つなぎとめられること、永遠と現世とがつながることが、リリージョンです。日本では、こういう意味でのリリージョンがないのです。
 人間は、肉体を持って業を背負っている人間を、人間だと思いこんでいるのです。業を背負っている人間の命はどんなものかといいますと、加藤清正という人は、加藤清正がいた事実しか知らないのです。彼の人生は、加藤清正だけで終りなのです。
 固有名詞の人間は、自分自身が生きていたという小さい範囲の経験しか知らないのです。こんなことで、永遠の命が分るはずがないのです。例えば、法蔵比丘という坊さんがいて、自分の人生を捨てて、無量寿、無量光が自分の本体だと思った。つまり、自分ではない自分になったのです。別人になったのです。
 しかし、アミダ如来の本体が何であるか。無量寿の本体は何か、命の本体は何かということになりますと、アミダ経では説明していないのです。大無量寿経でも分らないのです。
 仏典によって、ある程度のことは分りますけれど、本当の命がこれだという言い方をしていないのです。現世は空だといいます。ところが、空でない命がどこにあるかということをはっきり言っていないのです。永遠の世界と、現世を、つなぎあわせることができないのです。
 人間がこの世に生きていることが、業なのです。固有名詞で生きていることは、固有名詞の業なのです。固有名詞を自分だと思っていると、絶対に命は分らないのです。
 そこで、自分でない別の命を見つけることです。まず自分が生きていることは、今までの固有名詞の経験だけで生きているのであって、不完全なものである。未完成なものであることを、悟るのです。
 釈尊が空と言ったのは、あたりまえです。現在の人間は、生きていた所でしかたがないのです。
 自分が生きていると思っているのは、その人の勝手な判断であって、ただのうぬぼれにすぎないのです。不完全な考え方で命を見ているのです。
 だから、現在の日本人の生き方は、間違っているのです。何にもならないのです。今まで生きていた個人の命をもったままで死んでいきますと、死が怖くなるのです。これは、まともに命を生きていなかった証拠なのです。
 固有名詞で、自分の魂を束縛していた。拘束していた。だから、魂が自由に考えることができなかったのです。今まで勉強した哲学の本、倫理道徳の本、政治経済のことは分かっているけれど、やはりその人だけの理解なのです。
 例えば、一休禅師がいくら悟りを開いてみた所で、一休禅師の悟りであって、彼の悟りが本物であることを、どうして証明することができるのでしょうか。
 鈴木大拙は、禅の悟りは、その人の悟りであって、第三者がかれこれ言うべきものではないといっています。悟りとはこんなものなのです。
 人間は、自分が生きていると思っているが、これは全部間違っているのです。自分の業にとらわれているのです。自分の業のとりこになっているのです。だから、自由に考えることができないのです。
 日本人は公平に物を見ることが、非常に下手なのです。たんたんとして、冷静に、公明正大に見ることができない。だから、本当のことが分らないのです。これが、日本人の業なのです。
 日本は、現在、世界で一番自由に物が考えられるけっこうな国です。勝手な理屈が言えるのです。共産主義でも、無神論でも、無政府主義的な思想でさえも、自由に言えるのです。世界で、最も自由です。ちょっと野放図で、でたらめとさえ言えるくらいです。
 日本では何でも言えるのです。何でも言えるというけっこうな特徴を生かして使わなければ損です。何を考えてもいいのです。自分は自分ではないと考えてもいいのです。誰も文句を言う人はいないのです。
 生れながらの自分は、煩悩の自分であって、罪人の自分である。ところが、命を知りたい、神を知りたいと考えますと、新しい命の風が吹きこんでくることになるのです。
 幸いになりたいとか、死んでから天国へ行きたいというのはだめです。極楽往生を考えると、今の人間の考えに逆戻りしてしまうのです。命とは何かと考えるのです。そうすると、日本人的な束縛から脱出することができるのです。そうして、日本人の常識にこだわらないで、考えることができるようになります。
 地球は何のために造られたかという根本的な大問題があるのです。こういう問題について、勇敢につっこんでいく気持ちがなければ、本当の命は分りません。
 命はたった一つしかないのです。ところが人間は、命は自分のものだと考えている。妻や子供が他人であるように、実は自分自身も他人なのです。
 私達は、自分の命を持っているのではありません。神に生かされているだけなのです。命に生かされているといってもいいのです。命とは、本当の神なのです。地球が自転、公転しているそのエネルギーの当体が命であって、この命を支配する人格が神なのです。
 心臓が動いていることが、神なのです。こういう考えになりますと、生長の家の人々は、本当の神を知らずに神の子といっているのです。これは間違っています。
 私が言う命とは、シャーマニズムではないのです。目が見えることが何であるか。人間の目が見えるのではなくて、見える目が人に植えられているのです。聞こえる耳が、人に与えられているのです。自分の目や自分の耳が、見たり聞いたりしているのではないのです。
 第一、目で物を見るという考え方が、間違っているのです。人間の目は、光線の反射によって、網膜に影像が写っているのです。写っているだけであって、自分が見ているのではないのです。あくまでも、客観的なものです。そのように、物の考え方が間違っているのです。
 五官は一体誰がつくったのか。宇宙の命が造ったのです。命とは何か。エネルギーです。エネルギーとは、物理的にも働きますし、心理的にも働きますが、実は一つのものなのです。ある場合には物理的に働き、ある場合には心理的に働くのです。命になったり、香になったり、形になったり、音になったりして働くのです。宇宙の命の周波数が、様々な形になって働いているのです。神の子とは、宇宙の周波数によって生きていることを、自覚している人のことをいうのです。
 人間が客観的に存在することがイエスなのですが、これが日本人の頭では分らないのです。これは神の実体です。日本人には非常に難しいように思えますが、何でないことです。人間が人間である事、地球が地球である事が神なのです。
 新約聖書へブル人への手紙十一章六節に、神に来る者は、神のいますことを必ず信じるとあります。英訳でマスト・ビリーブ・ザット・ヒー・イズ(must believe that is)とありますが、これが日本人にはほとんど分らないのです。
 とにかく日本人は、聖書を誤解している。イエスが死を破ったことが、全然分らないのです。今年が2004年であることの意味が分らないのです。これを学校では教えようとしないのです。学者も、これを教えようとしないのです。ただ、今年が、2004年であるといっているのです。そういう無責任な教育をしている国でありまして、とにかく日本人は、命をまじめに考えようとしないのです。
 こういう民族の誤った習性を破って、人間とは何であるか、何のために人間が生れてきたのかを知るためには、神がイズ(is)であることを、信じなければならないのです。
 目がなぜ見えるのか。耳がなぜ聞こえるのか。消化機能は何をしているのか。こういうことが、神なのです。消化機能の働きが神なのです。目が見えることが神なのです。足が動くこと、手が動くことが、神なのです。この神を知ることが、マスト・ビリーブ・ザット・ヒー・イズなのです。
 人間が生きている命、自分が存在することの本体が分りますと、命の本質が分るのです。実は自分が生きているのではなくて、神を生きているのです。生きていることが神ですから、神を生きていることになります。
 これが本当の命であって、イエスはこれを見破ったのです。だからイエスは復活したのです。イエスが復活したことが、新しい歴史が展開したことを意味するのです。これが2004年です。
 これはキリスト教ではないのです。キリスト教は、こんな明解なことは言わないのです。イエスが復活したことは、歴史的に人間が死を破ったことなのです。学問は、イエスが死を破った事実を、最も慎重に、最も重大に考えなければならないのです。
 ところが、現在の大学では、イエスの復活を全然考えようとしていません。ただ生活のことだけしか考えていないのです。自然科学も、社会科学も、哲学も文学も、あらゆる文化概念が、この世の生活のことだけしか考えないのです。
 ユダヤ人のトリックに、まんまとひっかかっているのです。世界歴史には大きなトリックがあるのです。人間が死んでいかねばならない重大な策謀があるのです。神を裏切るもの、命を裏切るものなのです。
 こういう言い方をしても、何のことかさっぱり分らないでしょう。ユダヤ人達は、内心では、イエスが復活したという事件は、否定できない事実であることを知っているでしょう。世界中が西暦紀元を採用しているということは、イエス・キリストが歴史の中心であることを意味するわけで、これは否定できないことです。
 ところが、イエスの復活を公に認めると、ユダヤ人の思想が根底からくつがえされるのです。そこでイエスの復活の事件を覆い隠すために、文明というアイデアを考え出したのです。人間の伝統、宗教、政治、教育の四つによって、イエス・キリストの復活を必死に隠しているのです。これがユダヤ人のトリックという意味です。文明を聖書では、偽キリストというのです。
 イエスが死を破ったということは、人間歴史における最大のテーマなのです。核兵器の廃絶のことよりも、政治経済のことよりも大きいのです。生命のことは、一番大きい問題なのです。これを全世界の学者は、全然勉強しようとしていないのです。
 イエス・キリストが死を破ったという事件は、人間文明における学問の最高の問題なのです。これが分れば、人間の命についての基本的な勉強ができるのです。
 これを学問は取り上げていないのです。大学はこれが問題にできないのです。なぜ大学でこの間題を取り上げないのか。これは世界中の学者の怠慢なのです。十五年や二十年の怠慢とは違います。
 二千年間の怠慢なのです。二千年もの間、イエス・キリストが復活したという事実を知っていながら、これを勉強しようとしていない。
 なぜキリスト紀元が設定されているのか。このことについて正しい説明をする責任が、今の学者にあるのです。科学者にも、歴史学、政治学者にもあるのです。法律学者、哲学者にもあるのです。
 キリストが復活したことは、すべての学問の根本、基本の問題なのです。それをしていない。ここに現代教育の間違いがあるのです。
 だから人間の生活の仕方は、根本からまちがっているのです。現在の日本人は命を知らないのです。生きていながら命を知らないのです。これをはっきり言う宗教家は、一人もいないのです。哲学者も学者もいないのです。世界中の学者は、この意味で全部間違っていると言わざるをえないのです。
 世界中の学者が全部反対しても、間違っていることは間違っていると言わなければならないのです。全世界の文明の根本に、命を無視しているという重大な欠陥があるのです。人が生きていることを慎重に見ていけば、現代文明の間違いぐらいはすぐ分るのです。
 生理機能、心理機能は、人間の力で働いているのではないのです。天の力、命の力によって、働いているのです。命の力を、生理機能、心理機能によって、毎日経験しているのです。
 それなのに、命が分らない。命を経験していながら、命が分らない。目が見える、耳が聞こえることは、はっきり神を経験している証拠なのです。ところが神が分らない。今まで自分が生きてきた常識に、振り回されているからです。だから死んでしまうのです。命が分らない状態で生きていたら、必ず死にます。
 業をはたすとは、端的に言えば死ぬべき自分を捨ててしまって、死なない命を発見することです。
 これが業をはたすたった一つの方法なのです。



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