20なぜ般若心経と聖書が結びつくのでしょう

 日本人で般若心経に親しんでいる人は多いのです。ところが、般若心経に何が書かれているかを具体的に捉えている人はめったにいないようです。
 般若心経を写経して寺へ送ることをしておられる。それは、寺の商売になります。しかし、写経して寺へ送っても、本人の利益にはならないのです。写経して千円をつけて送る人がいます。般若心経は、そういうことのために使うものではありません。空を学ぶためにあるのです。
 般若心経は二百七十六文字という短い経典ですが、この中に、無という字が二十八あります。空が七つか八つあります。
 つまり、般若心経は早く言えば、空と無を説いているのです。般若心経が何を説いているかは、二、三回読めばすぐ分かるのです。般若心経は、人間の考えと人間の生活は、空であると言っているのです。これは、現世において常識的に生きていることが、無意味だということになるのです。無意味ならまだいいのですが、大きいお添えものがついてくるのです。霊魂の裁きというお添えものがついてくるのです。
 霊魂の裁きといいますと、地獄、極楽があると考えられますが、そういう考え方が、現在の日本人の、無責任さ、不真面目さを現しているのです。
 宗教の勉強はお金をとられるばかりなのです。何のたしにもならないのです。宗教を勉強するのは、宗教を卒業するためにするのです。これならいいのです。ところが、宗教にへばりついて、死んでから極楽や天国へ行こうと考えていますと、とんでもないことになります。
 この世の中には寺も教会もあります。この世に生きている間は、宗教は精神的な支えになるかもしれないのですが、死んでしまいますと、寺も教会もない所へ放り出されることになります。そこでは、宗教は全然通用しないのです。人間の考えている宗教も、哲学も、皆、この世の概念なのです。この世の情報なのです。人生観的な情報にすぎないのであって、それを信じて命の足しにしようというのは、とんでもない見当違いなのです。
 この世の中全体が間違っています。目的がないのです。政治にも、経済にも、目的がないのです。人間の生活全体が、根本的に目的を持っていないのです。目的なしに、現代社会が造られているのです。
 私達は、命を勉強するために生きているはずなのですが、それをしないで、ただ生きている。生活だけを考えている。そういう無責任な世界観や人生観を解脱して、本気になって命を考えなければいけないのです。
 宗教は、命に至るべき道しるべ位にはなりますが、命をはっきり提唱してくれるものではないのです。
 般若心経は、空を悟ることが目的でありまして、それでしまいなのです。しかし、これは大変重要なことなのです。宗教ではない般若心経は、本当に人間生活がむなしいものだということを悟るためにあります。
 しかし、これだけで命が分かったというものではないのです。般若心経は、人々に、人生はむなしいことを教えているのです。まず私達は、自分自身の人生がむなしい生き方をしていることに、気づくべきです。会社勤めをしているとか、商売をしているというのは、生活の手段にすぎないのです。命そのものの勉強にはならないのです。
 般若心経によって、現在の人間の生活がむなしいことを学ぶことです。これが分かったら、今度は、聖書によって、命の実質を捉えようとすべきです。
 聖書は、キリスト教の教典ではありません。キリスト教は聖書を宗教的に解釈して、売り物にしているのです。キリストを信じれば、死んでから天国へ行くということを売り物にして、宗教団体をつくっているのです。
 キリスト教は、神に至るべき、初歩的な道しるべにはなるでしょう。しかし、道しるべを見ただけで、目的地へ到達したと思ったら、とんでもない間違いになるのです。この道を右へ行けばどこへ行くと書いてある。それは間違いないとしても、道しるべを見ただけで、目的地へ到達したことにはなりません。そういう間違いを、平気でしているのです。
 般若心経と聖書を、宗教的に考えている。だからせっかくの般若心経も、聖書も、無意味にされているのです。般若心経と聖書の関係を簡単に言いますと、般若心経は空を教えてくれる。空が道しるべになっている。ところが、空だけでは命の実体を捉えたことにはならない。実体を捉えなければ、本当の自由はありません。本当の幸福はありません。
 聖書は、命を提供しています。これはキリスト教では分からない命なのです。般若心経には空があり、聖書には命がある。
 般若心経には悟りがあり、聖書には救いがあるのです。救いといっても、キリスト教でいう救いとは全然違うのです。
 般若心経と聖書とどういう関係にあるかという質問に答えれば、般若心経は私達に、現世をあきらめろと言っている。生活をすることをやめるのではなくて、現世における人間の物の考え方が空だと言っているのです。五夜皆空とはそれなのです。五蘊は、人間の物の考え方なのです。これが空だということを般若心経は強調しているのです。
 空を理解した後に、命を求めることを考えなければいけない。これは死んでから天国へ行くこととは遠います。現世に生きている間に、本当の命を捉えることを、聖書は強調しているのです。本当に自分自身を空じる気持ちのないままで、聖書を勉強しようと考えても、だめなのです。聖書はそんな簡単なものではないのです。
 イエスは、自分を捨てて、自分の十字架を負えと言っています。自分を捨てることが、今のキリスト教信者にはできていないのです。自分が救われたいと考えて、キリスト教へ行っているのです。これは大変な間違いです。宗教ではない聖書とはそういうものなのです。




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