18般若心経と聖書の関係を、もう少し詳しくお話し下さい

現在の日本は、ほとんど無宗教の状態でありまして、宗教は現世の人間に気にいられるようにしなければ、成り立たないのです。
 イエスは宗教が一番嫌いであって、宗教の悪さを手厳しく批判したのです。それでイエスは、宗教家に殺されたのです。
 宗教家は真理を叫ぶものを非常に嫌うのです。私の言うことに対して、寺の坊さんや教会の牧師さんは、必ず気違いだと言うにきまっています。
 私の思想は、私自身の思想ではないのです。イエスが考えていたことをそのまま言うのですから、宗教家に殺されかねないのです。日本にはあまり宗教に熱心の人はいないから、こうして生きていられるのですが、日本の宗教は皆、半死の宗教ばかりなのです。キリスト教も仏教も、半分死んでいます。だからつっかかってくる人がいないのです。
 ところが、イエスの時代はそうではなかったのです。当時のユダヤは宗教国家でしたから、宗教国家のまん中で、イエスは宗教の悪口を言ったのです。教会は盗人の巣であると言ったのです。そこでイエスはとうとう殺されたのです。
 イエスは宗教家に憎まれ、宗教家に殺されたのです。このイエスを現在のキリスト教は、教祖として祭りあげているのです。宗教はこういうおかしなものです。
 イエスがもう一度この世へ来たら、宗教を激しく攻撃するにきまっているのです。
 キリスト教は、イエス・キリストの名によって、商売をしています。これはひどいものです。
 一休禅師が、仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売るという意味のことを言っています。つまり、仏は宇宙の法を売っている。日蓮とか、親鸞とか、道元とかいう祖師は、仏を売っている。末世の僧はお祖師さんを売っている。皆商売をしているといっているのです。
 一休さんは私よりもひどいことを言っているのです。売っているという言い方を、私はしていません。私は、宗教にも尊敬すべき所があると思っているのです。例えば建物の立派なことです。国宝級のものがたくさんあります。仏像にもいいものがたくさんあるのです。もし仏教がなければ、こういうものは存在しないのですから、その意味で仏教は芸術的に尊敬する価値があると思うのです。ただし芸術的にという意味であって、真理としてではないということです。
 仏教は天地の創造をよく考えないのです。造化ということを考えません。造化の主(あるじ)ということを考えないのです。四大といって、地水火風という原理がくみあわされて、地球ができていると考えているのです。これは無始無終です。どこが頭か、どこがしっぽか分からない。のっぺら棒のあめん棒のようなものといっているのです。これが仏教の思想なのです。
 仏教には万物の創造がないのです。万物は造られたのではなく、始めからあったのであり、終わりまであるというのです。ところが、そうではないのです。科学的には、地球が誕生したことが証明できるのです。又、地球がなくなることも証明できるのです。
 形があるものはこわれていくにきまっているのです。地球に人間が住めなくなる時がくるのです。国とか社会とかいっても、国や社会が滅び、文明がすっかり滅んでしまう時がくるにきまっているのです。
 仏教は終末を考えない。本格的な終末論がないのです。弥勤という思想がありますが、これは終末とは違うのです。
 とにかく仏教には、宇宙の原理となるべきもの、大本となるべきものが、はっきりしていません。大日如来という思想がありますけれど、これは、釈尊よりかなり後にできたものなのです。釈尊が言ったものではないのです。
 これは密教でありまして、顕教の方にはほとんどこういう思想がありません。毘慮遮那仏とか、大日如来とかいうものは、造化の主とちょっと似たような所があります。しかし、聖書の天地創造の神とは全然違うのです。
 地球が存在する以上は、地球が造られたことがなければならないのです。造られなければ、現在、存在するはずがない。科学的にもそう言えるのです。原因がなければ、結果が発生するはずがない。何らかの形によって造られたからこそ、地球が存在するはずなのです。
 存在する地球は、やがてなくなるにきまっています。そうすると、なぜ地球が存在しているのか。人間がなぜ造られたのか。こういうことが、仏教では一切説明ができないのです。ここに仏教の欠陥があるのです。
 従って、般若心経だけでは人生の本当の真理が分からないのです。般若心経の無という思想は、すばらしい思想です。聖書にも、こういう形ではっきりと言い表していないのです。ですから、空と無を、般若心経で大いに学ぶべきなのです。
 現在の人間の常識も知識も、肉体生活も、地球も、やがて空になってしまいます。
 五蘊皆空というのは、厳然たる事実です。聖書にも、地球が燃えてしまうと書いています。空という端的な言い方をしていませんので、本来空であるという般若心経の言いかたは、端的で、日本人向きで非常によいと思うのです。ですから、般若心経を学ぶことは、大変いいことだと思います。けれども、これは仏教を学ぶことにはならないのです。
 般若心経は釈尊自身の悟りであって、釈尊は宗教家とは違います。今の坊さんとは違います。釈迦族の皇太子であって、宗教には素人なのです。
 イエスも宗教には素人なのです。ナザレの大工なのです。大工の青年とか、王国の皇太子という全くの素人が、本当の真理を主張しているのです。
 ですから、般若心経を仏教と思ってはいけないのです。聖書をキリスト教と考えたらいけないのです。そういう考え方をするから、本当のことが分からないのです。仏典にない所が聖書にあり、聖書にない所が仏典にあるのです。
 般若心経は五蘊皆空、すべてのものは空であるといっているが、皆様が現在生きておいでになるという事実がありますし、地球が回っているという事実があります。空ではない事実があるのです。お腹がすいてご飯を食べたいということがあります。本来空といっても、お腹はすくのです。
 人間はとにかく現存しています。現存していることは、五蘊皆空という言葉だけでごまかしておけない事実なのです。空でない実体が、どこかになければならないのです。これを、神の国とイエスは説明しているのです。目で見えないが、人間の霊に感じることのできる国なのです。
 例えば、皆様は現世にお生れになりました。男は男として、女は女としてお生れになりました。これは一体誰のせいでしょうか。生れたいと思って生れてきたわけではないし、死にたいと思って死ぬのではありません。生れてきたとか、死んでいくという事実を、一体誰が支配しているのでしょうか。
 このように、人間にはどうにもならない事実があるのです。このような事実を、聖書では神といっているのです。これはあたりまえのことです。神と言わなければ、絶対と言ってもよいのです。
 地球が現在回っているのも、人間が回しているのではありません。これは空とだけ言ってすまされることではありません。科学も哲学も説明できません。聖書によらなければ分からないことなのです。
 聖書によらなければ、天地創造の原理は絶対に分かりません。人間創造の原理も、他に求めようがないのです。
 そこで、般若心経の空を前篇として、聖書の神の国を後篇とする、釈尊を前篇とし、イエスを後篇として学んでいきますと、本当の意味での人間存在が分かるのです。これが、般若心経と聖書の関係です。
 今の人間は、全く酔生夢死です。酔っぱらって、夢の中で生き、死んでいくのです。どうか、本当の人生とは何かということを、はっきりつかまえて頂きたいのです。




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