16般若心経と聖書の関係はどうなるのでしょうか

 西洋とか東洋とかいうものが、あるという考え方があります。西洋があるとすれば、西洋の宗教がなければならない。東洋があるとすれば、又、東洋の宗教がなければならないのです。東洋や西洋は、国や民族の住んでいる場所です。それぞれの民族の歴史というものは、ありますが、本当は人間は一人しかいないのです。
 例えば、砂糖をなめれば、黒人であっても、白人であっても、皆甘いと感じます。そのように、世界中の人間が経験している命というものは、一つしかないのです。このことをよくお考え頂きた西洋人の命とか、東洋人の命とか、別々の命があるという考え方は、根本から間違っているのです。
 従って、本質的に言いますと、仏教とか、キリスト教とかいう考え方は、成りたたないのです。
 仏教とかキリスト教という考え方は、人間の常識的な考えなのです。人間の常識は、皆間違っています。人間の考えが、人間を迷わしてしまったのです。
 これは、大乗起信論を見れば分かりますが、人間は無明から生れ、無明に生きていると書いています。人間は、何も分からない状態で生れてきて、何も分からない状態で地球に住みこんでいるといっています。そのとおりなのです。
 仏教というものがあると考えるのが、間違っている。キリスト教があると思うのが間違っている。キリスト教というのは、聖書への入口なのです。仏教は仏法への入口なのです。仏教と仏法とは、全然違うのです。
 般若心経は、無苦集滅道、無知亦無得以、無所得故、菩提薩唾、依般若波羅密多といっていますが、四諦八正道と十二因縁をはっきり否定しているのです。四諦八正道と十二因縁は、大乗仏教の唯識論の根本思想なのですが、これを般若心経は無といっているのです。
 般若心経は仏教を否定しているのです。だから、般若心経を仏教の寺で読むのがおかしいのです。これは、般若心経の本質がどれほど真実に読まれていないかということの、証明になるのです。日本の仏教は、般若心経を全く知らないのです。
 仏教は仏法ではありません。日本の宗教です。釈尊の本当の悟りではないのです。般若心経は、人間でない人の悟りを、そのまま説いているのです。自分をはっきり否定しているのです。これが般若心経のすばらしい勇気なのです。これができなければ、イエス・キリストを信じることは絶対にできません。
 今のキリスト教で、イエス・キリストを信じている人は、一人もいないのです。キリスト教の物語を聞いているだけなのです。
 般若心経には、悟りはあります。五蘊皆空、究竟涅槃とは、自分が消えてしまうことです。これを般若心経は説いているのです。
 ところが、自分が消えてしまうということまでは、般若心経で説けるのですけれど、それでは、消えてしまった後の命はどうなるのか、今ここに生きている、心臓が動いているということをどのように説明したらいいのか、般若心経では説明ができないのです。これは、キリスト教ではない聖書を見るしかないのです。
 聖書というのはキリスト教の教典とは違います。般若心経も仏教のお経ではありません。般若心経は仏教を否定しているのです。聖書はキリスト教を否定しているのです。この世の教えを否定しているのです。ところがキリスト教は、キリスト教という教えを信じているのです。般若心経や聖書を売物にして宗教が成り立っているのです。
 だいたい、自分が救われると思うことが、大間違いなのです。今の人間は、迷いのかたまりです。常識のかたまり、学校教育のかたまりです。教育とか、常識というものは、人間をこの世の考えでしばってしまっているのです。そのために、自分の命について、自由に考えることができないのです。
 ちょっと難しい言い方になりますが、生きているのは自分ではない、神の御霊(みたま)が自分というかっこうで生きているのです。神の御霊が生きているのを、経験しているのです。御霊が生きているという経験です。この経験をする人間のことを、イエスというのです。
 神の御霊が人というかっこうで、生きている。この経験をすることを、イエスというのでありまして、イエスを信じるというのは、イエスと同じ経験をすることなのです。
 御霊というのは、神が物理的なエネルギーとして働いていることです。森羅万象は、神の御霊の働きなのです。
 人間は、自分の気持ちで自分を迷わせている。これが日本人の悪いくせです。自分の経験、自分の記憶があると思っている。これが間違いです。こういうものを踏み越えて、本当の考え方の中へ入っていこうとするのです。勇気を持つのです。
 この世の宗教や、この世の常識にとらわれていれば、必ず死にます。だから、死ぬにきまっている命を、脱ぎ捨てるのです。服を脱ぎ捨てるように、死ぬべき命を脱ぎ捨てて、夏がきたら、夏のような着物を着るのです。これを実行するのです。そうすると、死ぬにきまっている人間の状態から、踏み出すことができるのです。これには勇気がいります。
 今までの自分の経験にこだわっているようでは、必ず死にます。死ぬのがいやなら、死を破った人の所へ行くのです。
 イエスが死を破ったのは、歴史的な事実なのです。イエスが死を破ったことによって、キリスト紀元が始まった。人間が死ななくなってから、千九百年以上になっているのです。
 ところが、今だに人間は死んでいくのです。せっかく生きていながら、生きているという命をつかまえることができないで、この世を去っていく。
 この世を去ってしまいますと、寺も教会もない所へ行くのです。寺や教会は、この世に生きている間は役に立ちますが、この世を去ってしまえば、宗教の言うことは一切役に立たないのです。だから、この世の宗教の考え方を出てしまうことです。
 般若心経の五蘊皆空という悟りがなければ、キリスト教ではない聖書を信じることはできません。
 人間の常識が宗教になっているのです。人間は常識を通して、文明を頼りにしていますけれど、文明を頼りにして何になるのでしょうか。確かに生活は便利になりました。しかし文明は人間の霊魂を殺しているのです。そういうものを信じていると、文明と心中することになります。
 やがて、人間文明はめちゃくちゃになります。もうつぶれかかっています。こういうものを信じていたら、だめになります。
 イエスが復活したという歴史的事実を考えるのです。この事実をつかまえるためには、自分の考えがじゃまになるのです。これを空じてしまうこと、これを般若心経でしなければならないのです。
 自分の気持ちを空じてしまうというのは、難しいことではないのです。今までの自分の気持ちが間違っていたということを、素直に認めるだけのことです。これは誰でもできることです。五蘊皆空、究竟涅槃が分からなければ、自分の思想を乗り越えることはできないからです。まず、般若心経の悟りがいります。それから聖書の救いがいります。般若心経には悟りはあるが、救いはないのです。
 悟るというのは、仏になることです。まず成仏するのです。成仏すれば、神を信じることができます。仏になれば、イエスの命をつかまえることができるのです。せっかく命を与えられていながら、死んでいくというのは、全く残念なことです。




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