15般若心経の無を本当に悟れば、自然に聖書の言う神の国と神の義に行くのではないでしょうか

一体、釈尊の本当の悟りの内容がどういうものであったかと言うことです。今では、釈尊の本当の悟りを正確に理解することは、ほとんどできません。
 仏教が大乗だ小乗だといいまして、いろんな理論をつくり、如是我聞といってたくさんの経文を書き過ぎたのです。その結果、ゴーダマ・シツタルダーという一人の人間が、釈迦牟尼如来とか、万徳円満釈迦如来とかいう名前をつけられて、祭り上げられてしまったのです。
 私は、お釈迦さんの思想を批判しょうと思っているわけではありませんが、率直に言いますと、釈尊が一体何を悟ったかということは、現在、不明です。法華経でも、阿含経、華厳経、又大般若経でも、中心思想を要約しますと、般若心経に集約されると思います。
 般若心経は、日本人に最もポピュラーな感覚で受けとめられていますので、般若心経がもっている独特の思想を、宗教ではないという立場から究明することが、人生を勉強するのに、非常に役立つと思います。そこで、般若心経を掲げているのです。
 釈尊の思想が人生を空と見ているのですが、それだけでいいのではないかという考え方もあり得ると思います。ところが、ただ人生を空と考えただけでは、人生の実体はどこにあるかということになるのです。
 皆様方は、心理機能、生理機能が基礎になって、生きているわけです。心理構造や生理構造が、実は皆様方の実体なのです。これは空ではないのです。ところが、人間は一メートル何十センチかの身長を持ち、何十キロかの体重を持っているものだと考えている。こういう考え方が空なのです。
 しかし、生理機能や心理機能が空ではありません。目で見たままの人間は空ですが、生かされているということは事実であって、空ではないのです。人間の常識を乗り越えて、現在生かされているという事実を見ると、こういうことになるのです。
 私達は、空気や水を自分で造っているのではありません。ところが、天地が供給する空気や水を、どんどん使用して生きているのです。つまり、人間は生かされているのであって、生きているのではありません。仏教的に言えば、他力本願的に生かされていることになるのです。
 そうすると、他力の実体は何であるかということなのです。空気は一体どうしてできるのか、水はどうしてできるのか。この宇宙構造の実体は何であるかということなのです。心理構造や生理構造は、どうして人間に与えられているかということなのです。
 今、私の目の前に、皆様が座っていらっしゃるとします。皆様は、生れたいと思ってお生れになったのではありません。とすれば、今座っていらっしゃる皆様は、自分ではないはずなのです。
 自分が生れたいと思って生れたのなら、自分という人格があっても当然ですけれど、自分が生れたいと思わなかったのに勝手に生れてきたのですから、厳密に言いますと、皆様は自分ではないはずなのです。そうすると、何であるかということになるのです。
 釈尊は、空を説明しました。いわゆる涅槃ということです。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静がいわゆる仏教の三法印ですが、これは、人間存在と天地の存在が空であることを、はっきり言っているのです。
 しかし、地球が回っているという事実があるのです。地球を回しているのは誰であるかということになるのです。どういう力がどのように回しているのかということなのです。
 実は、地球を回している力のことを、聖書では命というのです。この命が神であると言っているのです。
 神とは全く思いもよらないことなのでありまして、実は、皆様方の目が見えることが神なのです。心臓が動いていることが神なのです。
 この神は宗教の神とは違います。地球が回っているという事実なのです。花が咲いているという事実なのです。これが神だと言っているのです。
 イエスが見ていたのは、こういう神なのです。私の父、あなた方の父と言っているものです。花が咲いているという事実を、イエスは神と呼んでいたのです。雲が流れている事実を父と呼んでいたのです。これが宇宙の実体です。
 ところが、釈尊の時代には、本当の意味での神という思想が、インドにはなかったのです。インドの神という思想は、神遷というものになっていました。これは摩詞不思議なことをする孫悟空のようなものという意味です。
 これを釈尊は軽蔑していました。私もこれを軽蔑します。仏教ではいわゆる悟りを強調しますので、この立場から申しますと、神という言葉は使えなくなるのです。ですから、神という言葉は、釈尊の時代にはなかったのです。
 ところが、イエスは釈尊より五、六百年後に生れているのです。もしイエスが十字架にかかった後に釈尊が生れてきたとすれば、釈尊とイエスの意見は、非常に一致したと思われます。釈尊は、イエスより五、六百年も前に生きていたために、イエスの十字架が分からなかったのです。
 ただ一つここで考えなければならないことは、イエスが誕生した時、インドから東方の三人の博士がはるばるベツレヘムを訪れたという記事が新約聖書にあります。東方とはインドのことです。
 当時、インドには、すばらしい星が現われ、その人が世界の救い主になるという思想があったようです。例えば、釈尊の一代記に、一見明星があります。釈尊は明けの明星を見て悟ったといわれていますが、これは、やがて来るべきイエスを直感したかもしれないのです。
 このように、釈尊の思想と、イエスの思想には、非常に微妙な連関性があるのです。
 釈尊は異邦人という立場に立って、本当の事実を証明しようとした。イエスは神の約束の民として、人類の完成、神の国の実現という素晴らしいスケールの問題を証明するために現われたのです。
 釈尊は、神の約束には関係のない異邦人の一人として、悟りを言っているのですが、その内容には般若心経に出ていない面があるのではないかと思います。どうも分からない点があるのです。
 阿のくたら多羅三みゃく三菩提という言葉は、素晴らしい無上の悟りというのですが、この悟りの内容が般若心経には書いていないのです。般若心経だけではなく、一万七千六百巻の経文の中にも書いていないのです。宇宙の完成ということを、はっきり言っていないのです。
 もう一つ注意しなければならない点は、釈尊は自分自身が生きているというポイントから出発したということです。釈尊は人間が生きているという所から出発して、生老病死という四苦を究明するために出家したと言われているのです。
 人間の立場から人間の迷いを説いても、実はだめなのです。なぜだめかと言いますと、天地がなぜ存在するかということが説明されていないのです。人間が人間の生老病死の因縁を説くことができても、地球がなぜできたのか、地球にだけなぜ生き物が満載されているのかということが、説明されなければならないのです。こういう点が、釈尊の足りない所です。つまり、釈尊が生れた場所と、生れた年代が、イエスと違っていたということです。こういうことを詳しく勉強されますと、神の国と神の義ということが自然に分かってくるのです。




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