12般若心経が前編で、聖書が後編であるという意味をお話し下さい

新約聖書の内容といいますのは、ずばり申しますと、神の国をテーマにしたものということになります。例えば、キリストの十字架、復活、昇天、聖霊降臨、使徒行伝時代の活躍など、新約聖書の中心の思想は、神の国が強く押し出されています。これは現世の思想ではないのです。
 キリスト教の人々が、イエス・キリストの十字架によって、罪の贖いが完成したといっています。従って、人間の罪が赦されて、その人の魂が天国へ行くということをいわゆる贖罪論といいますが、これは概念としては間違っていません。しかし、これは宗教概念でありまして、神の国の実体といりぅ感覚がすっぽりぬけているのです。
 例えば、神の実体は何であるか。神を信じるとはどういうことなのか。天地創造とはどういう事実をさすのかというように、適確に具体的な事実を押さえていきますと、だんだん分からなくなるのです。
 これは、キリスト教という宗教が、概念を説明しているから、そういうことになるのです。聖書の言葉が、具体的に預言されていないのです。キリスト教の神学と、聖書の預言とでは、内容が違っているのです。
 そこで、私達異邦人は、日本人やアメリカ人は異邦人ですが、異邦人から考えますと、新約聖書の内容は、オクターブ違うのです。次元が違うのです。
 異邦人は、「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束された色々の契約に緑がなく、この世の中で希望もなく、神もない者である」(新約聖書エペソへの手紙2・12)とパウロが言っていますが、キリストや神の約束に何の関係もなかった日本人が、ぼやっと聖書を見ただけでは、なかなか本当の神の国の意味が分かりません。
 聖書は、十字架によってすべての人は死んでしまっているといっているのです。このような秘密、すべての人が死んでしまっているとはどういうことなのか。キリスト教の神学ではなかなか分からないのです。
 従って、新約聖書に登りつくための足台として、般若心経が手頃であると信じられるのです。
 仏典はたくさんあるが、なぜ般若心経をとりあげたのかという質問をする人がありまが、般若心経の中心思想は、釈尊の悟りの中核を貫く思想です。五蘊皆空は、釈尊の悟りの中心思想です。この五蘊皆空という思想から、釈尊のあらゆる教説は出発しています。このように考えてもよいと思います。そこで、新約聖書に、足台なしに直接くらいつきますと、皆間違ってしまうのです。
 例えば、日本にきているキリスト教は、欧米から来ています。アメリカのキリスト教でも、イギリスのキリスト教でも、北欧のキリスト教でも、ほとんど常闇違っています。
 今の日本のキリスト教では、聖書の預言的な意味での言葉の扱い方が、ほとんど徹底していません。これは、新約聖書に始めからくいついたから、そうなったのです。
 イエスが、「こころの貧しい人たちは、さいわいである」(マタイによる福音書5・3)と言っていますが、心の貧しいものとは、心がむなしい者という意味です。これをイエスが言ったのは、ユダヤ人に対して言ったのです。
 ユダヤ人はイエスが現われるまでに、モーセの掟によって、二千年間訓練されていたのです。日本人の場合には、何の訓練も行われていません。訓練なしに、いきなり聖書にとりくんだのです。だから、日本のキリスト教は、皆間違っているのです。例えば、新しく生れるとはどういうことなのか、イエスの御名とは何であるか。こういう重大なことが分かっていないのです。
 イエス・キリストを信じるということ、神の国を受けとるということ、神の国に入るということ、これは大変な問題です。目が黒いうちに、永遠の生命の実物をつかまえることになるのですから、大問題ですが、このような問題を、ただの素人が、始めから取りくむということが、無理なのです。
 そこで、般若心経を踏み台として用いることが、一番ふさわしいと思うのです。始めから、新約聖書の神の国と取りくんで、はっきり分かるというのなら結構です。それが悪いというのではありませんが、だいたいそういうことは、できないのです。
 そういう事実を、いやというほど見てきましたので、あえて般若心経を前編にすえたのです。こういう意味でありまして、般若心経を軽んじているのではありません。般若心経にははっきりした彼岸の説明がありません。聖書には、彼岸の説明がされているのです。
 そこで、般若波羅蜜多を前編において、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」を後編におきますと、ちょうどワンセットになって、よく分かるのです。




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