11大無量寿経は、人間の生命はずっと親から子へ続いているといっています。聖書は永遠の生命を追求しています。これは真理ではないでしょうか

仏法は、悟ることを本則としています。ところが、人間が悟ることが、人間にある仏性によるといいますが、一体仏性とは何か、仏性の本質は何であるか、どうして人間に仏性があるのかということなのです。
 仏性において悟ったということになりますと、これは人間が悟ったのではなくて、般若心経に、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄とありますように、観自在菩薩が悟ったといっているのです。これは人間が悟ったのではなくて、観自在が悟ったということなのです。したがって、仏性というものは何かということなのです。
 悟りが良いか悪いか。又本当の悟りとはどういうものかということについても、やはり理屈ではなく、いわゆる仏教の教義によるのではなく、私達が生きているという実体に即してということでなければ、結局押し問答になってしまうと思います。
 聖書の方を言いますと、聖書には悟りということはないことはないのですが、非常に少ないのです。「なんぢらも今なほ悟りなきか」(マタイによる福音書15・16文語訳)と、悟るということばをイエスは使っています。
 ところが聖書で言う悟りは、仏典で言っているものと用い方が違うのです。仏典で言っている悟りというのは、空観に徹することをいっています。イエスが言っているのは、宗教の誤謬性、架空性についてです。宗教の間違いを、いまだ悟らぬかといっているのです。
 人間の命は、教義や教説ではありません。私達は実際に生きているのです。皆様方の心臓は現在動いているのでありまして、これは理屈で解決できる問題とは違うのです。時には、理屈も必要でしょう。しかし人間が生きているということは、理屈ではなく、事実なのです。
 聖書には、信仰という言葉があります。信仰とは何かといいますと、人間が神を信じることとは違うのです。キリスト教ではそう考えていますが、聖書はイエス・キリストの信仰、神の信仰といっているのです。
 神の信仰を持てといっているのです。Have faith in Godと英訳されていますが、これは神における信仰を持てということなのです。believe in God, believe in me, といっていますが、神において信じなさい、私において信じなさいという意味なのです。
 日本の聖書では、神を信ぜよと訳しているのです。神を信ぜよと訳しますと、believe in Godと違った意味になるのです。人間が神を信じることになるのです。
 イエスが言いたいのは、妄念を持った人間が、無明煩悩の人間が、そのままの気持で神を信じても、まともな信仰にはならないといっているのです。そこで、神において神を見よといっているのです。
 月の光で月を御覧になります。こういうやり方をするのです。神の知恵で神を見る、神の心で神を信じるのでなければいけないのですが、これは、仏性において悟るということとよく似ています。
 聖書で言う信じるということは、他力本願の信仰とはちょっと違います。どこが違うかといいますと、信仰とは神において神を信じるということです。これは、仏教の絶対他力ということによく似ているのですが、信じるという心境について言いますと、絶対他力とは違うのです。
 聖書で言う信仰の心境は、神の啓示のことです。これは聖書独特の思想です。これは、仏教には全く類例がありません。この点において、仏典と聖書ははっきり分かれてくるのです。
 仏教学者は啓示が分からないと言われます。分からないはずです。啓示とは、開かれることです。啓開というと分かりやすいと思いますが、人間の常識、知識では、命の本質はどうしても分からないのです。命を完全に客観視するような方法でないと分からない。人が生きている状態を充分に客観視するのです。
 これは口では完全に説明できませんが、神の御霊(みたま)によれば理解できるのです。御霊は聖書用語ですが、宗教用語、宗教教義とは関係がないものです。例えば、今地球が回っていますが、これを御霊の力といっているのです。花が咲くこと、果物が実ること、こういうことをすべて御霊の働きと言っているのです。
 このような御霊の働き、つまり人間の思考を絶した、宇宙の大霊自身が人間の魂の指導霊となって、現世に下っている。これを聖書では、聖霊降臨といっているのですが、聖霊又は御霊の助けによらなければ、人間の命の本質はどうしても究明できないのです。
 御霊によって、天的な知恵が啓開されること、開かれること、これが聖書の言う信仰なのです。これは、キリスト教で言っている信仰とは違います。
 キリスト教では、普通の人間が神を信じること、神を拝むことを信仰だと考えている。
 こういう点が違うのでありまして、聖書の信仰の本質は啓示です。仏典の本質は悟りです。もちろん仏典の場合、他力本願と自力本願とでは全然違いますが、だいたい釈尊の言ったことの中心は悟りであって、啓示ではありませんでした。その点が違っているのです。




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