8般若心経と聖書の関係はどうなるのでしょうか

日本では、今日まで、般若心経と聖書を、一つにまとめて説明することができなかったのです。その理由は、宗教という角度から見ていたからです。
 般若心経は、悟りを説いています。究竟涅槃は、悟りなのです。
 涅槃とはどういうことかと言いますと、サンスクリットの、ニルバーナーを訳しているのです。ニルとは冷えることです。バーとは消えることです。ナーとはなくなることです。つまり、冷えて、消えて、なくなることが、浬涅槃なのです。人間で言えば、死んでしまうことなのです。
 もう少し常識的に言いますと、蝋燭の火が、風によって、ふっと消えてしまうことです。人間の生活意識は、蝋燭の火のようなものです。自分が生きていると考えていることが、蝋燭の火のようなものです。
 生きているのは、現世にいる人間の概念であって、これは、必ず消えてしまうものなのです。消えてしまうまでに、目の黒いうちに、消えない灯を見つけることが、必要なのです。
 人生の目的は何かといいますと、魂の灯をともすことなのです。魂の灯をともすというのは、現在、この世に生きている間に、消えない灯をともすということです。
 言いかえれば、死なない命を見つけることです。今までの世界観ではない、新しい世界観を持つのです。世界観というと難しく聞こえますが、物の見方ということです。
 人間は、現象世界があると考えています。だから、死ぬのです。現象世界はあります。現在の人間の生活意識によれば、現象世界は、現存しているのです。
 しかし、人間の生活意識は、変化するものです。固定したものではありません。これは、一つの思いなのです。一つの考えであって、目に見えてはいるけれど、実は存在していないという考え方も、充分にありうるのです。
 教育主義的な現代思想が、人間に、見えているものがあるという意識を、植えつけてしまったのです。
 昔の日本人は、そうではなかったのです。例えば、千利休は、一期一会をお茶の原理にしているのです。これは、見ている通りのものがあるという考え方と、違います。今という瞬間しかない。瞬間だけしか生きていないことを、はっきり認識する時に、本当の茶をたてる喜びがわいてくるというのです。
 五十年生きてきた。六十年生きてきたという考え方と違うのです。瞬間だけ、人間は生きているのです。こういうまじめな考え方が、かつての日本にはあったのです。徳川家康は、戦国時代の武将でした。この武将の軍旗が、厭離穢土欣求浄土だったのです。厭離穢土というのは、この世は汚れているから、私はいやだというのです。欣求浄土は、浄土を求めるというのです。これが日本の武将でした。これが、日本民族がもつ特性です。
 徳川幕府三百年の間に、日本人の世界観が、がらっとぬりかえられたのです。ユダヤ人が、人類の世界観を塗り替えたように、家康及び、十五代の将軍が、士農工商と四つにわけて、封建制度を確立したために、日本人の常識が、根本から変ってしまったのです。日本の伝統的な良さが、全くなくなってしまったのです。
 明治以降の日本では、文明開化という名のもとに、ユダヤ主義が氾濫しているのです。この感覚が日本に氾濫したために、日本が、文化的にぬりかえられてしまった。本当の人間歴史が消えて、文明という感覚が、表面に浮びあがったのです。
 文明と歴史は、全然別物なのです。その区別が、今の学者には分らないのです。ただ世間に認めてもらいたいと考えているのです。日本の学者は、皆、ノーベル賞を欲しがっているのです。ノーベル賞を貰えば、世界的な学者になるからです。ダイナマイトを発明したノーベルは、ユダヤ人です。ユダヤ人にほめてもらわなければ、世界的な学者になれないと思っているのです。文明が、そのようにしているのです。
 現在、アメリカにあるのは、キリスト教の聖書であって、本当の聖書ではないのです。キリスト教の神信心はあります。これは、全部、西洋の宗教です。キリスト教が説いているキリストは、キリスト教のキリストです。これを、日本人に押しつけているのです。
 聖書は、宗教ではありません。神の言葉です。神の言葉という意味が、キリスト教の人々には、分らないのです。キリスト教の人でも、聖書は神の言葉だといいます。しかし、神の言葉と、宗教と、どう違うか分らないのです。聖書が、キリスト教のテキストになっているが、これが間違っているのです、聖書は、キリストを信じるためにあるのではないかと、キリスト教の人々が言われますが、キリストという言葉の使い方が、間違っているのです。
 キリストというのは、神が地球を造ったこと、そして人間を完成し、地球を完成するための神の地球計画のことなのです。
 実は、現在の地球は、未完成なのです。人間も、未完成です。まだ一人前の人間ではないのです。だから、命が分らないのです。目で見ているものが、どういうことなのか、分らないのです。
 神とは、簡単明瞭に言いますと、心臓が動いていることです。目が見えること、耳が聞こえることが、神なのです。五官の働きが、命のあり方を、正確に表現しているのです。
 人は、五官によって、命を経験しているのです。命を経験しているが、生活意識が間違っているために、命が分らないのです。
 だから、今の考えを持ったままで、聖書をいくら読んでも、分らないのです。「心が貧しい人たちは幸いである」(マタイによる福音書5・3)ということが、何のことか分らないのです。マタイ伝の山上の垂訓の第一句が、全然分らないのです。神の御霊によらないと、分らないのです。
 聖書は、神の言葉ですから、神に教えてもらわないと、分りません。人に教えてもらってもだめです。キリスト教の牧師、カトリックの神父さんは、皆、人間です。だから、世間並の商売をしているのです。キリスト教の看板をかけて、商売をしているのです。
 聖書は、命の言葉そのものです。般若心経が悟りそのものであるように、聖書は、命そのものなのです。
 そこで、キリストを信じるということは、普通の人間の常識を持ったままでは、できないのです。できるつもりでも、皆、間違ってしまうのです。
 パウロは、このことを、心を更えて新にせよといっているのです。精神の深みまで、新にせよといっているのです。(エペソ人への手紙4・23)イエスは、悔い改めて福音を信ぜよ(マルコによる福音書1・15)といっているのです。悔い改めるとはどうすることか。これが、キリスト教では、全然分っていないのです。人間の意識構造を、全く変えてしまうこと、マインド(精神)を、全部変えてしまうことなのです。
 心を更えて新にせよという所を、英語で見てみますと、マインドのあり方、マインドの働きを、もう一回、新しくやり直して、出なおせといっているのです。(ローマ人への手紙12・2)マインドの働きをやり直すとは、究竟涅槃しかないのです。イエスをまともに信じるためには、涅槃をまず、実行しなければだめなのです。
 命が自分のものだと考えている状態で、いくら聖書を信じても、だめなのです。命は、自分のものではないのです。天から預けられたものなのです。これが分らないと、キリストが信じられないのです。信じたつもりでも、キリストの概念を信じているだけであって、キリストを信じたことにはならないのです。
 水と霊とから新しく生れて、神の国へ入れ(ヨハネによる福音書3・5)と、イエスは言っています。これが、キリスト教では、実行できないのです。水から生れるとは、どうすればいいか、霊から生れることが、何のことか、分らないのです。
 宗教は、いくら信じても、死んでから神の前へ行く方法がありません。神の前に通用することを考えようとしますと、誠心誠意、霊魂の本当の状態を、つかまえていなければだめです。神の前は、厳粛な事実です。厳然たる事実です。神の前に立つには、何をどうすればいいかを、聖書によって勉強すればいいのです。
 聖書によって、神と人との対話を学ぶのです。祈ることは、神と人とのコミュニュケーションであって、神と人との対話なのです。神と対話をしようと思ったら、神の心境が分らなければ、できないのです。
 心臓が動いていることが神なのですから、これをつかまえるのです。そうすると、神と対話ができるのです。




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