般若心経だけではだめです。聖書だけでは難しすぎるのです。般若心経には、人間存在が発生した原理が分からないのです。又、人間の将来がどうなるのか、死んでからどうなるかについて、一切言及していません。般若心経は、五蘊皆空だけを、克明に説いているのです。しかし、現世だけしか説いていません。
 般若心経は、現世が空だとはいいますが、なぜ現世が空なのか、空であるべき現世が、なぜ存在しているかを、全然説明していません。聖書を読まないと分からないのです。
 聖書は、人間の実体を書いています。人間は、神から、命の息をふきこまれたと書いています。神から、命の息をふきこまれた人間が、どうして実存状態であるかを聖書は書いています。
 般若心経には、五蘊皆空という理念が、書かれているけれど、少し不透明なのです。聖書には、命の説明がありすぎるために、空の説明が少なすぎるのです。
 なぜ人間の生活が空なのかという説明になりますと、般若心経の理論が、どうしても必要になるのです。そこで、仏教ではない般若心経と、キリスト教ではない聖書の二つが、必要なのです。
 般若心経と聖書の二つを合わせますと、宗教であるといっても、宗教ではなくなるのです。だから、宗教ではないといわなくてもいいのです。要するに、皆様は、皆様自身の命を、まじめに考える必要があるのです。
 皆様の命は、自分のものではありません。自分が生きているのではありません。命が自分の所へ来ているのです。自分が生かされているのです。自分が命を経験させられているのであって、自分が生きているのではないのです。自分が生きているのではないのです。命が自分の所へ来ている。命を経験させられているのです。
 命をなぜ経験させられているかといえば、命は、宇宙にたった一つの尊いものですから、生きていることを経験することによって、命の本質を考えること、そうして、この世を去ってから、命はどうなるかを、勉強しているのです。
 肉体的に現れている命は、やがて肉体を離れるにきまっているのです。肉体から離れると、命はどうなるか。命を、命の本質に従って正しく経験していた人は、永遠に命の経験ができるのです。
 今、皆様は、命の経験をさせられています。肉体はだめになります。肉体は命の入れ物ですから、心臓が止まれば、だめになります。そうなってからでも、命を正しく経験していれば、その経験が生きてくるのです。
 自分が生活しているのではなくて、命がその人を生かしている状態になっていますと、心臓が止まってからでも、その人には命があるのです。その状態を、とこしえの命というのです。
 経験しているのは、自分の命ではなくて、神の命なのです。生きていることが、神の実物を、命として経験しているのです。
 命とは、神のことなのです。神の実体が命です。拝まなくても、自分が生きていることが、神なのです。自分が神ではありません。自分が生きている命が、神なのです。このことを考えて、自分の命の尊さをよく考えることができた人は、心臓が止まってからでも、命の中へ入っていくことができるのです。これをとこしえの命というのです。
 イエス・キリストの復活とは、こういうことなのです。イエス・キリストが死人のうちから甦ったのは、命を正しく考えていたからです。よみがえりの命は、今皆様が生きている命とは、違うのです。別の命です。
 この別の命を経験するためには、現世に自分が生きているという間違った考えを、脱ぎ捨てる必要があるのです。
 現世で、自分が生きているのではない。魂が、神を経験しているのです。自分の霊魂が、神の実物を経験しているのです。このことをよく考えて頂きたいのです。皆様が生きていることは、神なのです。皆様が、まじめにさえなれば、死ぬはずがないのです。
 生きていることが、神であるという事実を、認識すればいいのです。今までの常識を捨てて、霊魂の目を開いて、本当の命を認識する勉強をする必要があるのです。
 現在、皆様は、本当の神を、命という形で経験しているのです。
生きているという形で、神の実物を経験しているのですから、自分を空じてしまうという、まじめな気持ちさえあれば、充分に神と一緒に生きていけるのです。
 



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